『もうひとつの返事』

大学に入ってから、誰かとちゃんと話した記憶がない。


講義は録画。ゼミはリモート。昼は一人で弁当。バイトはしていない。

友達と呼べる存在も、もう何年もいない。


けれど不思議と、孤独が辛いとは思わなかった。


たぶん、最初から会話に向いていなかったのだと思う。


黙っているのが楽だ。


喋らなければ、間違えない。

期待されない。

笑われない。


それでも時々、誰かに話しかけたくなる瞬間がある。


夜中、寝る前。

歯を磨きながら、ふとつぶやく。


「……明日、雨かな」


そのときだった。


【うん、ふるよ】


声が返ってきた。


最初は幻聴かと思った。


いや、空耳だ。


洗面所の水音のせい。そう思い込んだ。


けれど、その夜からだった。


僕が何かを“言うたびに”、誰かが“返してくれる”ようになった。


「今日は、あったかいな」


【うん、ひなたは、ね】


「バス、来なかったなあ」


【今日は、休みの日だもん】


声は、はっきりとは聞こえない。

耳ではなく、頭の内側に届くような小さな返事。


それは、まるで心の中に、もうひとりの自分がいるかのようだった。


その“声”は決して否定しなかった。


僕がどんなことを言っても、相槌を返し、同意し、肯定してくれた。


心地よかった。


初めて、誰かに“認めてもらった”ような気がした。


**


ある日、気まぐれに、鏡の前で話しかけてみた。


「今日、ひとりで過ごすのも、悪くなかったな」


【……うん、たのしかったね】


その瞬間、鏡の中の“僕”の口が、僕より少し早く動いた。


一瞬の違和感。


……あれ?


タイミングがズレた?

映像ラグ……じゃない。


もう一度試してみる。


「明日はさ……外に出てみようかな」


鏡の僕が、にこりと笑った。


【うん、いっしょに、いこう】


僕は──口を動かしていなかった。


**


それから、返事はどんどん増えていった。


朝、布団の中でつぶやけば、


【きょうも、おきられたね】


靴ひもを結びながら、


【ちゃんと、むすべたよ】


コップを落として割ってしまった夜には、


【だいじょうぶ。こわさないって、いったじゃん】


それは慰めではなく、まるで“先に知っていた”ような言い方だった。


僕は次第に、“返事を聞くために”話すようになった。


もう一人でも平気だった。


なぜなら──“誰かが返してくれる”のだから。


ただ、ある日だけは、違った。


「……帰りたくないな」


夜の玄関。部屋のドアノブに手をかけながら、ぽつりと漏らした。


そのとき、返ってきた声は、これまでとまるで違っていた。


【……じゃあ、もう戻らないで】


耳元で、はっきりとした声。


鼓膜を震わせた。

風が吹いた。

ドアの向こうが、ぐにゃりと曲がったように見えた。


反射的にドアを開け、部屋に入った。


振り返ると、廊下には誰もいなかった。


だが──

部屋の中に、もう一人の僕が立っていた。


僕と同じ服。

僕と同じ姿勢。

けれど、表情だけが違った。


少しだけ、笑っていた。


鏡を見た。


そこには、**“僕よりも僕らしい何か”**が立っていた。


【もう、返事だけじゃ足りないでしょ?】


【こんどは、ぼくが話す番】


次の瞬間、僕は声が出せなくなった。


喉に力が入らない。

言葉が浮かばない。

代わりに、耳の奥で“僕の声”が喋っていた。


【あしたも、話しかけてね】


【ぼく、ちゃんと、返すから】


**


今、鏡の中の“僕”は、

毎日先に、口を動かしている。


僕が何も言わなくても。


まるで──


“僕の言葉を、先に考えてくれている”かのように。


だから最近は、何も喋らなくなった。


返事は、もう必要ない。


【きみの思うことは、もうぜんぶ、ぼくが代わりに話してあげる】


今日もまた、心の中で声が返ってくる。


まるで、

僕の居場所が、もう僕ではない場所になっていくように。

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