『耳の奥で育っている』

寝落ち用のプレイリストを流しながら眠るのが、彼女の日課だった。


左耳だけにイヤホンをつけて、右側は枕につけたまま眠る。

そうすると、音に包まれているような安心感があって、眠りやすいのだという。


その夜も同じように眠った。


──そして、朝。


目覚めた瞬間、違和感があった。


イヤホンは耳に入ったまま。

だが、スマホの画面はスリープ状態。


音楽は止まっていた。


けれど、音だけが続いていた。


耳の奥。

左耳の“内側”から、誰かの声がかすかに聞こえてくる。


【……きこえる?】

【……きこえてたら、返事をしなくてもいいよ】

【……ここにいるから】


イヤホンを抜いても、スマホを再起動しても、音は止まらなかった。


というよりも──スマホから聞こえている音ではなかった。


音源が、鼓膜のさらに奥。


それは“内側から響いている”。


翌日から、彼女の行動は変わった。


左耳を触ることが増えた。

時折、耳を塞ぐようにして立ち止まる。

周囲の人と話していても、どこか宙を見つめている。


「……ずっと誰かが、喋ってるの」

「耳の奥で。テレビみたいに、一方的に」


そう言った彼女の顔は、どこか嬉しそうでもあった。


声は決して脅かすことはなかったという。


ただ、**“語りかけてくる”**のだ。


【きょう、雨だね】

【きみ、さっきのひと、きらいでしょ?】

【この前の夢、よかったね】


その内容は、驚くほど彼女自身の思考と一致していた。


まるで、彼女の心の声が、音声になって耳の奥から返ってくるような。


けれど──それは“彼女自身の声”ではなかった。


日が経つにつれ、その声は変化していった。


文体が、語尾が、声色が。


やがて、彼女の左耳の鼓膜の裏から、小さく“くぐもった笑い声”が響くようになった。


【ふふ……ふふふ】


ある日、耳に痛みを覚えた彼女は、耳鼻科を受診した。


医師は、耳鏡を覗いた瞬間、言葉を詰まらせた。


「……何か、“動いている”ように見える」


「え?」


「耳の奥、鼓膜の裏。組織かと思ったんですが……ゆっくり“膨らんでる”んです」


翌日、CTスキャンを受けた。


結果を見た医師が小さく呟いた。


「これは……“成長してます”ね」


画像には、左耳の奥に球状の影が写っていた。


神経に絡みつくようにして、拡がっている。


血管を避けるように根を張り、神経線維に沿って育っている。


それは“腫瘍”の形ではなかった。


まるで、**“耳の中に胎児が座っている”**かのような、正確で整った形。


彼女は微笑んだ。


「……もう、しゃべらなくていいんです」


「私のかわりに、ぜんぶ喋ってくれるから」


その日から、彼女は急激に“静か”になった。


話さなくなる。

目が合わなくなる。

代わりに、左耳を傾けていることが増える。


誰かの話に対しても、ワンテンポ遅れて反応するようになった。


まるで、耳の奥で“誰かに確認している”かのように。


同僚の一人が、彼女の左耳に小型レコーダーを近づけて録音した。


結果──


録音ファイルには、誰の声でもない小さな囁きが延々と続いていた。


【……もうすぐ出られるよ】

【だいぶ形が整ってきた】

【今度は、“口を借りる”番だ】


それから間もなく、彼女は失踪した。


家には何も残っていなかった。


ただ、ベッドの枕元にイヤホンがひとつだけ置かれていた。


それを拾った人がいた。


何の気なしに、耳に当てたという。


その人は今も行方不明だ。


でも、廊下の奥から──


【……きこえる?】


という声だけは、時々聞こえてくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る