『うしろの棚にいる』

その棚の裏には、誰もいないはずだった。


市立図書館の最奥――古い文学全集や地方史料が並ぶ、人の少ない一角。

そこにある「壁際の大棚」は、端から端まで背板で塞がれており、構造上、人が入れる隙間は存在しない。


だが、“見た”という人がいた。


「本棚の隙間から、手が伸びてきて、本を引っ張っていったんです」

「白くて、細くて……子供の手でした」


最初にその話をしたのは、児童書コーナーで働く女性スタッフだった。


彼女は棚整理中、遠くから“何かが本を取っている”のを目撃した。


しかもそれは、棚の背後から手を出していた。


背後には壁しかないはずなのに。


以来、返却ボックスに不審な本が戻り始める。


・貸出記録のない書籍

・消えたはずの古本

・館内には存在しないはずのタイトル


そして何より──


本の中に、“知らない人間の記録”が綴られ始めていた。


該当する本を開くと、巻末やページの余白に、鉛筆で書かれた走り書き。


「7月12日、最初に見られた」

「8月5日、背中を触られた。左側」

「10月9日、あちらから声がした。“そっちは明るすぎる”と」

「読まれた瞬間に思考が曇った。“こちら”が考えていたようだ」


記録は全て一人称で書かれているが、筆跡も文体もバラバラ。


だが、ある時期から、全ての記録が“誰かを見ている”視点へと変化した。


【本棚の外側に、女の子がいた】

【こっちに気づかないふりをしていた】

【でも、呼吸でわかった。気配をつかんだ】

【次は男。髪が濡れていた。うしろを向かせる】


ある職員が気づいた。


「これ、利用者の行動を“観察してる”んじゃ……?」


そして、その記録と完全に一致する人物がいた。

一ヶ月前から頻繁に通っていた、近隣の大学生。

彼は、ある日を境に来館しなくなった。


返却ボックスには、彼が最後に読んでいたとされる本と──


**“彼の顔写真が挟まれたメモ”**が戻ってきた。


そんなことがあった直後だった。


僕は、その棚の整理を任された。


新人アルバイトである僕に、最奥の区画が回ってきたのは偶然だった。


埃っぽい文学全集。誰も読まない地方都市の歴史。


整理しながら、ふと違和感に気づいた。


棚の奥──ほんのわずかに、空間が“膨らんでいる”。


隙間が、ある。


懐中電灯を差し入れて覗いてみた。


その瞬間──


光が“吸い込まれた”。


吸収されたのではない。

“誰かが手で覆った”ような遮断。


次の瞬間、棚の奥から“カチリ”とページをめくる音がした。


覗き返すと、視界の端に“目”があった。


黒い、光を持たない、何かの“眼球”。


直後、本が一冊、足元に落ちてきた。


拾うと、見覚えのない背表紙。


タイトルは、なかった。

代わりに、図書ラベルには手書きでこう記されていた。


『記録対象:×××(僕のフルネーム)』


中を開くと、僕の行動記録が記されていた。


・○月×日 午後2時12分 入館、天井を見上げた

・午後2時15分 本を左から5冊分ずらした

・午後2時28分 棚の音に気づく、しかし無視した

・午後2時31分 “こちらに気づかれた”


読み進めるごとに、胸が冷えていった。


“誰か”が、ずっと僕を見ていた。

そして、今も──背後からページをめくっている。


その夜から、夢の中に本棚の裏側が出てくるようになった。


狭く、暗く、湿っている。

だけど、誰かの声がする。


【読んでくれてありがとう】

【きみのこと、書ききれるまで返さないから】


朝起きると、手のひらに墨のような汚れがあった。


拭っても落ちない。


指先には、小さなインクの滲みが染みついている。


今日も、本棚の奥から“誰か”が僕の名前を呼ぶ。


そして、僕の記録を“続きを書かせよう”と待っている。

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