第3話

翌日、学校帰りに無理矢理手を引かれた。どうやら緊急らしい。それも厄介なタイプの。夕暮れの気配が部屋の奥まで静かに染み込んでいた。アムはソファに横たわり、窓の向こうの淡い色に目を細めていた。机の上には冷めきった紅茶と、ロミーのスマートフォンが転がっている。いつもは気ない配信やコメントに軽口を叩く彼女だが、今は言葉を飲み込んでいるようだった。

「ねえ、アム。」

不意にロミーが口を開いた。その声色には珍しく迷いがあった。

「先に言っておくと私達、関係ないわ。でも、少し面白いかもね。」

「正直だな。焦らして弄ぶ性格かと思った。」

「昨日はね、可愛いからね。これ、見て。」

スマホを渡され、アムは画面に目を落とした。

DM欄には、いくつかの短いメッセージが並んでいる。

『配信、いつも見ています。突然ごめんなさい。相談したいことがあります。』

カーソルをさらに下にして、再び確認する。

『神を引いたのに、何も起きませんでした。』

ロミーを呼び出し、見間違いか確認したが、どうやら事実らしい。

『おかしいのでしょうか?誰にも言えなくて・・・。』

アムは眉を寄せた。

「神引きで“何も起きない”って、どういう意味なんだろう。」

「わからない。」

ロミーは珍しく弱気な声で続ける。

「こういうの、ほっとけないんだよね。」

「頑張ってリピートしてほしいからな。」

アムは小さく頷いた。その口元には、薄く笑みが浮かんでいる。

「会って話、聞いてみるか。」

「うん、直接会う方が早いよね。」

二人は簡単に返事を打ち、待ち合わせの場所と時間を決める。ロミーの表情には、どこか落ち着かない影が浮かんでいた。

数時間後、駅前のカフェ。

人通りが少しずつ減り始め、店内は静かなざわめきだけが満ちていた。

「元々バイト先だったの。焼肉屋の居抜きだから、ほぼ個室よ。」

ロミーは髪を整え、いつもの快活な笑顔を作ろうとするが、どうにも顔が引きつる。緊張が彼女の表情を強張らせているのが見て取れた。アムは無言のまま、扉に目を向ける。

「この格好で電車乗りたくねぇんだけど。」

アムは不満そうにつぶやいた。

「もう来たんだからしょうがないじゃない。似合ってはいるわよ。心にも衣服と鎧が必要そうね。」

ロミーはからかうように返す。

「着替えるためのヴェールは最低限欲しい。」

「石鹸を泡立てる網で我慢しなさい。」

やがて、扉がゆっくりと開いた。

現れたのは、年齢より少し幼く見える少女だった。制服の袖をきつく握りしめ、何度もあたりを見回している。その視線には、明らかな不安と戸惑いが浮かんでいた。

「別の学校か?」

アムは静かに観察する。

「隣の市の子ね。塾のバッグはこの辺りのかしら。」

ロミーが補足する。

「県に展開している塾だな。教師がまともな部類らしい。具体的に言うと黄〇ャートまでしかオススメしない。」

「本当にまともだ。というかアムって結構本好きよね。」

「家族が馬鹿なお陰で捨てていったからな。」

アムは一旦姿勢を整える。実際にそうかは分からないが、反社みたいな格好をした鳶職の愉快なおっちゃんがいる店は、中々入りにくいだろう。

「あのおじ様スポーツ選手もやっているよ。」

ロミーが隣にいる少女に聞こえないように、しかしアムには聞こえるように囁く。

「46で?」

「実際は48らしいわよ。」

「体重なのか年齢なのか分からなくなってきたな。」

聞いていた話と数段階小さな少女に出会った。その幼さに、アムはわずかに目を見張った。

「こんにちは・・・ロミーさんですか。」

声は透き通っている。話すには若干異質で、すぐに聞き取れるほどの特徴があった。

「うん、来てくれてありがとう。」

ロミーが柔らかく返す。アムも軽く会釈した。彼の内心は「話すのはいい、これ以上は関与したくない」と叫んでいた。

少女は二人の前の席に腰を下ろし、肩をすぼめたまま視線を落とす。手元のスマートフォンをぎゅっと握りしめたまま、言葉を探しているようだった。しばらく沈黙が続いた。重苦しい空気が三人を包む。

アムが口火を切る。

「相談っていうのは、『神引き』のこと?」

少女はおずおずと頷いた。

「・・・はい。神を引いたんです。でも・・・何も起きなくて。」

「何も起きない、って?」

ロミーが優しく促す。その声には、彼女自身の不安も混じっているようだった。

少女は、少しずつ語り始めた。

「みんな、神を引いたら何かしら変わるって言っています。願いが叶ったり、生活が楽になったり。でも私には・・・何も、変わらなくて。それどころか・・・何かいる“気配”だけは感じるのに、動きも、声もなくて・・・。」

少女の手が震えていた。その震えは、彼女の心の奥底にある恐怖を物語っていた。

「怖かったの?」

アムが静かに尋ねる。その一言に、ロミーは内心「(片腹痛くなるわね。配信といい、猫被りで猫耳メイドを出せる実力は、見習いたいものだ)」と感心する。

「・・・はい。でも、誰にも話せなくて。もし自分だけがおかしいなら、もっと怖いと思って・・・。」

少女の声が細く揺れた。ロミーもアムも、その言葉を遮らず、じっと耳を傾けていた。沈黙が再び三人の間に落ちる。外では人々の足音と、暮れかけた夕陽が世界を静かに包み込んでいた。

カフェの空気は、徐々に重たくなっていった。

ロミーは、少女の表情と手元を静かに見守っていた。そして、奢りで注文したホットサンドをできるだけ多く口の奥に入れる。

(食べすぎよ、バカ)とロミーはアムに目配せする。

(仕方ないだろう、焼肉設備を利用した肉が美味いからな)とアムは無言で返す。

「そっか・・・怖いよね。みんなが“神を引いたら何か変わる”って言っているのに、自分だけが違う気がしたら、余計に不安になるよな。」

少女は顔を上げ、かすかにロミーを見た。その目に、微かな希望の光が宿る。

「・・・ネットで調べても、誰も“何も起きない”なんて言ってなくて。本当は・・・自分が何か悪いことしたんじゃないかって思っちゃって・・・。」

「それは無いでしょうね。経験者としても。」

アムが断言する。

「答えが出ているかどうか次第・・・誰相手のものか迷っているとか?」

アムはしばらく考えてから、率直に尋ねる。

「その“気配”って、どんな感じ?」

少女は、少し言葉を探してから答える。

(神の種類も知らない・・・とりあえず、ノーヴァではないな。)とアムは冷静に分析する。(ロミーは結婚したい相手がいない中で、結婚を扱う神のファミリオを引いた可能性が高いと示唆している。リリアという恋愛の神もいるが、肉体相性のリリア、生活相性のファミリオと似ているようで異なるのだ。)

(ロミー的にはどうだ?)とアムはロミーに問いかける。

(友情の神・・・ミティね。あの子はフレンドリーだから、そういう感じじゃないのよね。)とロミーは答える。

(心当たり自体はある。)とアムはさらに深く考える。

(多分同じ答えだけど、早急に出すべきではないわ。)とロミーはアムを制する。

(分かっている、一旦見守ろう。)アムは頷いた。

「・・・ずっと、そばにいるんです。目には見えないけれど、気配だけは感じる。でも、話しかけても返事はないし、動きもしない。ただ、いるだけ・・・。」

少女の声は、まるで宙に漂う空気のようだった。

ロミーが尋ねる。

「石は置いてきた?」

少女は首を横に振る。石とは祈りを込めてガチャを引くための石だ。アムもロミーもアクセサリーとして気に入っているので必ず持っている。とはいえ、いつ頃から持っているかは分からない。本当に突然持っていた感じで、記憶にさっぱり存在しないのだ。

「それは・・・できなかったです。なんとなく・・・捨てても、気配が消えない気がして。むしろ、自分が“おかしくなった”みたいな感じで・・・誰にも言えなくて、でもずっと怖くて。」

アムは、自分のカップを一度指で回しながら、言葉を選ぶ。違和感がある。何か、以前似た体験をした気がするのだ。それが思い出せない。

「たとえば、何か願ったりした?神を引く前に“こうなりたい”とか、“何かしてほしい”とか思ったことは?」

少女はしばらく考え込む。

「特別な願いはなかったです・・・。みんなみたいに“幸せになりたい”とか、“いいことが起きてほしい”とは思ったけれど、誰かを恨んだり、羨んだり・・・そういうのは一度もなくて。」

ロミーは小さく頷いた。その表情には、少女への同情と、どこか困惑の色が混じっていた。

「たとえば、ちょっとでも“誰かが嫌い”とか“あの子みたいになりたい”とか思ったこと、ない?」

少女は静かに首を振る。

「本当に・・・そういうの、分からないんです。

嫌いな人も、妬ましい人もいない。みんなが“普通に”抱く感情が、自分だけどこか足りてない気がして・・・。」

アムは少女の言葉を反芻した。その純粋さに、彼は複雑な感情を抱く。

「じゃあ・・・神は、何をすればいいか分からなくて“いるだけ”になったのかな。」

彼は独り言のように呟いた。少女は再び視線を落とし、小さくつぶやく。

「どうして、自分だけこんなふうなんでしょうか・・・。神様に何かお願いしなきゃいけないのに、何も思い浮かばなくて、ただ怖いだけで・・・。」

ロミーがそっと声をかける。

「それは、悪いことじゃないと思うよ。

世の中には“何も望まない”ことの方が、ずっと難しいんじゃないかな。」

少女はしばらく考えたが、答えは出なかった。彼女の瞳には、まだ混乱の色が宿っている。

(脳の機能が異常なんじゃないか?考えないというのはいくらなんでも・・・。)とアムは合理的に推測する。

(映像の録画で確認するわ・・・一旦神へのコンタクトをとってみましょう。留まっているなら可能性としてはあり得ます。)とロミーは冷静にアムに伝える。

(コンタクト?・・・そっちはそういうことが可能だったのか?)アムは驚きを隠せない。

(友情は広く浅くか狭く深くの二択よ。幸福感で気を緩めて、本心を聞き出すの。だから神の種類次第で可能だと思うわ。)

(追跡するか?)

(アムは皆振り返る程度に目立つから、着替えてからね。)

カフェの窓の外では、空が徐々に紫色へと変わり始めていた。

三人の影だけが、テーブルの上で静かに揺れていた。中では小さなBGMと食器の音だけが、時折三人の沈黙を埋める。少女は自分の手をじっと見つめている。指先は冷たく、震えていた。

ロミーは穏やかな声で続ける。

「たとえば、その“気配”に何か伝えようとしたことは?」

少女は小さく首を振る。

「怖くて、あんまりちゃんと話しかけたことがないです。お願いも、謝罪も・・・どうせ何も届かないんじゃないかって思って。友達を作るのは得意ですけれど・・・やっぱり、失うのは怖くて・・・。」

アムはゆっくりと言葉を継ぐ。その言葉には、少女への共感のようなものが滲んでいた。

「その気配、怒ったり悲しんだりする?」

少女は黙ったまま考え込む。

「・・・分からないです。ただ、なんとなく・・・こっちの気持ちには反応しない感じです。自分がどれだけ怖がっても、泣いても、そばにいるだけで・・・。もしかしたら、本当に“ただいるだけ”なのかもしれません。」

ロミーは少し考えてから、少女の肩に視線を落とす。

「“誰か”がそばにいるのに、何も変わらない。それが神様だっていうのも、なんか・・・やりきれない。」

少女はぽつりとつぶやく。その声には、微かな絶望が混じっていた。

「みんな、“神様がいるから変われる”って言っています。でも、自分には、そもそも変えたいものがなかったのかもしれません・・・。それがいけなかったんでしょうか。」

アムはその言葉を受けて、優しく返す。その声は、驚くほど温かかった。

「いけないことなんてない。誰かを恨まなくても、羨まなくても、本当は“普通”じゃないかもしれないけど・・・でも、君の気持ちは君のものだよ。」

少女はかすかに笑いかけるが、すぐに俯いてしまう。その目には、まだ戸惑いの色が残っていた。

「今まで、誰にも話せなかったです。親にも友達にも、言っても分かってもらえない気がして・・・。こうやって話を聞いてくれて、ちょっと楽になりました。」

ロミーはやわらかな声で頷く。

「何も起きなくても、不安にならなくていい。

“おかしい”のは君じゃなくて、世の中や神様のほうかもしれないよ。」

少女の瞳には、ほんの少しだけ光が戻る。店の外では、夜の気配が街を包み込み始めていた。電灯がひとつずつ灯り、通りを行き交う人々がそれぞれの物語を歩いていく。

テーブルに残った三人の影だけが、それぞれに違う未来を思い描いて、静かに伸びていた。

カフェを出ると、外の空気は一層ひんやりしていた。少女は両手でスマートフォンを抱え込むように持ち、俯きながら歩き出す。アムとロミーはその後ろを静かに並んで歩いていた。

駅までの帰り道、信号待ちのたびに少女は何度も後ろを振り返った。

「今日は、ありがとうございました。」

声は小さく震えていたが、どこか張り詰めていたものが少しほどけているようにも見えた。

ロミーは、少女の横に並ぶ。

「困ったことがあったら、またメッセージしていいから。」

そう言って、スマートフォンの画面を見せる。

少女はこくりと頷いた。

アムは夜空を見上げる。

都会の光のせいで星は見えないが、かすかな雲の切れ間に淡い月だけが浮かんでいた。

その下で、自分たちはどこに向かって歩いているのか。ふと、そんな考えが浮かんだ。彼の胸には、得体の知れない不安が広がっていく。

「自分だけがおかしいと思い込むのは、もうやめます。」

少女がぽつりと言った。その言葉には、微かな決意が感じられた。

「何も起きなくても、それでも、生きてていいんですよね。」

ロミーは少し驚いた顔で、すぐに優しく頷いた。

「もちろんだよ。何も起きなくても、変わらなくても、生きているだけでいい。」

駅の明かりが近づくと、少女は二人に頭を下げた。

「ありがとうございました。お二人も、お元気で・・・。」

そして改札へと消えていった。ロミーとアムはしばらくその場に立ち尽くした。静かな余韻だけが、二人の間に漂っている。

ロミーが小さくつぶやく。

「何も起きないって、ある意味すごいことだよな。本当に“何も望まない”って、きっとすごく難しいことなのに。」

アムはポケットに手を入れたが、スカートだと思い出しすぐに手を抜き、そっと答えた。

「神様も困っただろうな。“何をしてほしいか分からない”っていう人間、たぶん珍しいんじゃないか。」

ロミーはふっと笑った。

「まあ、世の中いろんな奴がいるってことだ。」

二人は歩き出す。

夜風が肩をすり抜け、まだ灯りの消えない街の中へと溶けていった。

歩きながら、アムは小さくつぶやいた。

「誰にも悪感情を持たない人間に、神は何もできないのかな。」

ロミーは答えなかった。けれど、二人の足取りはほんの少しだけ軽くなっていく。月の明かりが、三人の心の上に静かに降り注いでいた。

「それで、神とやら自体は怪しいな。」

アムが沈黙を破る。

「ええ、神を騙る犯罪は聞いたことがあるわ。授業で触れるきっかけになった大規模な誘拐事件、手口自体は同じじゃない?」

「本人の合意で録音アプリは入れさせといた。明日持ち帰って確認よ。」

「分かった、そっちはやっておく。配信はどうする?」

「私だけで十分よ、焦らさないと面白くないでしょ?」

「ソロでも良いぞ、もういい加減明かしたい。」

「ダメよ、五年やってから明かして脳を破壊するの。」

結果的には、五年後に明かすことになった。

「一応、あの先の神の予想は出来ているか?」

「あの子自体は脳の機能障害でしょうけれど、一つ心当たり自体はあるわ。」

ロミーの顔が、わずかに引き締まる。

「人を殺せる神。」

以前、資産家が話した神に関して、情報収集の必要がある。下手すれば、こちらが一番矛先を向けられている可能性すらある。緊張が張り詰め、確実に詰めなければならない。

「そっちに指示は託した。」

アムはロミーの決断を待つ。

「経験則での判断は頼るわ。」

ロミーはウィッグを整え、声も調整し、練習した分を叩きつける。彼女の表情には、並々ならぬ覚悟が宿っていた。

「惚れ込ませれば問題ない。」

それが原因で失敗する可能性もあるが、とりあえずは敵意を抱かせないことが大事だ。しかしロミーはあの変態視聴者を量産した程度に誘惑が強く、警戒されてしまう可能性もある。

できるのは、自分だけだ。ロミーは、アムの言葉の重みをひしひしと感じていた。

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