第23話 巨大な影

 その日の森の図書館は、珍しく、一日中、来訪者が誰もいなかった。


 図書館で働くことになった鬼のアオは、高い書架の埃を払いながら、カウンターに座るサヨに言った。


「サヨさん、今日は誰も訪れませんね」


 サヨは、窓の外の、夏の強い日差しに目を細めながら答えた。


「ええ……。ですが、アオ。静かな日ほど、大きなものが動くこともあるのですよ」


 その言葉の意味を、アオはまだ知らなかった。穏やかな、日曜の午後だった。


 その次の瞬間、世界から光が消えた。前触れは何もなかった。まるで、太陽が巨大な掌で覆い隠されたかのように、真昼の図書館は、一瞬にして真夜中の闇に沈んだのだ。停電ではない。暖炉の中の火だけが不安げに揺らめいている。


「な、なんだ……!?」


 アオが狼狽する。サヨは静かに立ち上がると、図書館の入り口の扉をゆっくりと開けた。二人は外へ出る。そして、空を見上げた。絶句した。頭上の空いっぱいに、それはいた。


 巨大な、空飛ぶクジラ。


 その身体は、星雲のように淡い光を明滅させている。皮膚には、無数の小惑星が衝突したかのようなクレーター状の古い傷跡が刻まれている。一つの眼は、図書館のある森よりも大きく、そこには宇宙の誕生から今までを見つめてきたかのような永劫の孤独と、計り知れない哀しみが静かに湛えられていた。


「サヨさん、あれは……」


 アオの声は震えていた。


 言葉が届いているかもわからない。本を手渡すこともできない。あまりに巨大で、あまりに隔絶された来訪者。


 やがて、その巨大なクジラから音が響いてきた。それは声というより、空間そのものを震わせる、哀しみの波動だった。故郷を失ったのか、仲間を失ったのか、あるいはただ、その果てしない孤独を嘆いているのか。


 サヨは動かなかった。ただ、じっと、その天上の来訪者を見つめ、その声なき声に耳を澄ませていた。


 アオは言った。


「私たちは、何もできません……。本を渡すことも、言葉をかけることも……」


 サヨは頷く。


「ええ。……いいえ、一つだけできることがあります」


 サヨは空を見上げたまま、静かに目を閉じた。呼応するように、背後の楠の図書館から、金色の光が蛍のように無数に溢れ出した。光の粒は物語の断片だった。


 ラスコーリニコフの、罪に震える斧。


 サンチャゴの、巨大なカジキの骨。


 シェヘラザードの、千の夜を紡ぐ唇。


 星の王子さまの、たった一輪のバラ。


 ドン・キホーテの、風車に挑む折れた槍。


 これまでにこの場所を訪れた、すべての魂の、すべての物語。その喜びも、悲しみも、怒りも、後悔も、愛も、すべてが光となり、天上のクジラに向かって、静かに昇っていく。


 それは、一つの答えを提示する行為ではなかった。ただ、伝えるための行為だった。『あなたは独りではない。この小さな星には、あなたの孤独に寄り添えるだけの、無数の物語がある』と。本の形を捨て、言葉さえも超えた、魂と魂の静かな交感。


 しばらくして空のクジラは、その巨大な眼をゆっくりと一度だけ瞬かせた。哀しみの波動が、ほんのわずかに和らいだような気がした。クジラはその巨体をゆっくりと反転させふと、来た時と同じように、音もなく壮麗に、星屑の尾を引いて、空の彼方へと消えていった。その姿が見えなくなると、世界に光が戻った。何事もなかったかのように、夏の午後の日差しが、再び地上を照らし始めた。アオは、呆然とサヨに尋ねた。


「届いたのでしょうか」


 サヨは、晴れ渡った空を見上げながら、静かに言った。


「分かりません。でも、それでいいのです。届けることが目的ではありませんから」


 彼女は微笑んだ。


「物語は、読まれるためではなく、ただ語られるためにあります。私たちは、この巨大な、声なき孤独の証人になった。そしてこの宇宙が、決して空っぽではないと伝えた。……それだけで十分なのです」


 図書館の役目は、時に本を手渡すことではない。ただそこに在り、見つめ、そして、宇宙の広大な孤独に向かって、物語というささやかな応答を送り続けること。


 その日、図書館にはもう誰も訪れなかった。だが、サヨとアオは知っていた。今日この場所が、これまでで最も大きく、そして遥かなる来訪者を迎えたのだということを。

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