第22話 鉄格子の外

 その男は、囚人だった。


 男の名は、とうの昔に失われた。彼は、ただの「四〇九番」だった。


 コンクリートと鉄格子に囲まれた、灰色の独房。それが、彼の世界の全てだった。十五年前、若気の至りで犯した、取り返しのつかない罪。その日から、彼の時間は止まっていた。彼は、ただ、国が定めた分の時間を、この檻の中で消費し、命が尽きるのを待つだけの存在だった。


 希望も、絶望も、とうに風化してしまった。彼の心は、静かな凪の中にあった。

 

 四〇九番は、独房の硬いベッドに腰掛け、壁の染みをいつものように、ただ見つめていた。


 その時だった。


 彼は瞬きをした。それもたった一度だけ。


 次の瞬間、壁の冷たいコンクリートは、苔むした、温かい土の匂いに変わっていた。


 頭上を覆っていた天井は、どこまでも高い木々の枝葉に。


 そして、彼の自由を隔てていた鉄格子は、まるで幻のように、跡形もなく消え失せていた。


 彼は、森の図書館の前に立っていた。


 着ているのは、みすぼらしい囚人服のまま。何が起きたのか、理解できなかった。これは、死ぬ前に見る夢か。それとも、ついに精神が破綻したのか。


 彼は、十五年ぶりに感じる、土の柔らかさに戸惑いながら、その巨大な楠の図書館へと、おそるおそる足を踏み入れた。


 中に入ると、司書のサヨが彼を静かに迎えた。傍らには、鬼のアオと、年老いた猫の片耳が控えている。


 その、あまりに穏やかで、日常的な光景に、四〇九番は、かえって現実感を失った。彼は、この場所の清浄さに、自分の存在が、場違いな染みのように感じられた。


「わ、私は……」


 十五年ぶりに、自分の意思で言葉を発したせいか、声はひどく錆びついていた。


「私は、罪人です。人を、殺めた。いるべき場所は、ここではない。あの、鉄格子の内側です。……なぜ、私は、ここにいるのですか」


 彼は、許しを乞うでも、自由を喜ぶでもなかった。ただ、自分の罰が中断されたことへの、深い困惑を口にした。


 サヨは、彼の瞳の奥底に沈殿する、重い罪の意識を見つめていた。


「あなたの身体は、確かに罰を受けています。ですが、あなたの魂はどうでしょうか」


 彼女は、書架から一冊の重厚な本を持ってきた。そのタイトルを四〇九番は知っていた。


 フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』


「この本は問いかけます。真の罰とは、石と鉄でできた牢獄なのか。それとも、人が自らの心の中に築き上げる、孤独という名の牢獄なのか。これは、一つの罪と、その後に続く、永く、暗い魂の旅の物語です」


 四〇九番は、その本を受け取った。


 彼は、主人公ラスコーリニコフの、観念的な殺人に、自分を重ねた。そして、罪を犯した後の、彼の心を苛む、猜疑心と、孤独と、耐え難い罪悪感の描写を、彼は自らの体験として読んだ。


 ラスコーリニコフを真に罰したのは、シベリア送りの判決ではなかった。それは、彼の魂が自らの罪によって、人々から、そして神から切り離されてしまった、その根源的な孤独だったのだ。


 四〇九番は、はっとした。


 自分は、十五年間、国の定めた「罰」を、ただ、受動的に受けてきただけだった。身体を拘束され、自由を奪われることで、罪を償っている気になっていた。だがそれは、本当の「罰」から目を背けていただけではなかったか。


 自らの罪と向き合い、その重さを魂で受け止め、そこから始まる、果てしない贖罪の旅。彼は、本当の罰の入り口にさえ立っていなかったのだ。


 彼は顔を上げた。その目には、十五年ぶりに明確な光が宿っていた。それは、自らがこれから歩むべき、長く険しい道筋を見据えた、覚悟の光だった。


 彼は、サヨに向かって深く頷いた。そして、彼は一度だけ瞬きをする。その瞬間、図書館の景色が、陽炎のように揺らぎ始めた。


 本の匂いは消毒液の匂いに。


 木の床の感触は、コンクリートの冷たさに。


 独房は、相変わらず彼の自由を奪う牢獄だった。が、一つだけ違っていることがあった。


 彼の膝の上に、分厚い『罪と罰』が置かれていたのだ。


 彼にとって独房は、ただ時が過ぎるのを待つだけの無機質な場所ではなかった。彼の魂が本当の「罰」と向き合い、そしていつか、その先にあるかもしれない「救済」へと向かう、贖罪の旅の出発点となったのだ。


 四〇九番は、最初のページを開いた。


 独房の小さな窓から差し込むわずかな光の中で、彼の本当の刑期が、今始まろうとしていた。そして彼は、竜也という一人の人間に戻りつつあった。

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