第9話 元書店員の男

 その男、黒田は、自らの意志で森の図書館を探し当てた、数少ない来訪者だった。元カリスマ書店員。今は、本への愛憎に燃え尽きた、魂の迷い子。彼は、この図書館の主である司書、サヨに会うために来た。それは、長年、彼の心を苛んできた問いを突きつけるためだった。


「あんたは、何のために選書をしているんだ」


 同業者としての嫉妬と、道を失った者としての純粋な問い。それは、彼の魂の叫びだった。


 サヨは、彼の激しい問いを、静かに受け止めていた。彼女は何も答えず、書架から一冊の本を持ってきた。何の変哲もない、分厚い国語辞典だった。


『新明解国語辞典』


「……は?」


 黒田は、思わず間の抜けた声を出した。国語辞典?馬鹿にしているのか。


「あんたの問いの答えは、この中にあります」


 サヨは淡々と言った。


「ですが、私が指し示すことはしません。あなた自身の目で、見つけてください。あなたが、本当に探している言葉を」


 黒田は、屈辱と好奇心がないまぜになった気持ちで、その分厚い辞典を受け取った。彼は、図書館の隅の閲覧席に腰を下ろし、吐き捨てるようにページをめくり始めた。


(何が答えだ。馬鹿にしやがって……)


 「選書」、「司書」、「本」……関連する言葉を片っ端から引いていく。だが、そこに書かれているのは、当たり前の、無機質な説明だけだ。


(やはり、はぐらかされたか……)


 彼が辞典を閉じようとした、その時。ふと、ある言葉が彼の脳裏をよぎった。それは、彼が書店員として、客に本を薦める時に、最も大切にしていたはずの言葉だった。


 てわたす【手渡す】

 (1)自分の手から相手の手に直接渡す。

 (2)自分の管理・保護下にある人や物を、他の人

 に引き渡して、その管理・保護にゆだねる。


 その定義を読んだ瞬間、電撃のようなものが彼を貫いた。


 そうだ。俺がしていたのは、「選書」ではなかった。「手渡し」だったのだ。自分の知識を誇示するのでも、他人の人生を導くのでもない。ただ、一冊の本が持つ力を信じ、迷える人間の手に、そっと「手渡す」。そして、その先は、本と、その人に委ねる。


 その、どこまでも謙虚な行為こそが、自分の原点だったはずだ。


 彼の思考は、止まらなかった。定義の中にあった、次の言葉。彼は、憑かれたようにページをめくった。


 ゆだねる【委ねる】

 処置や決定の権限などを、全面的に他にまかせる。


 これだ、と彼は思った。俺は、いつからか任せることができなくなっていた。本を渡した後まで、相手の人生に責任を負うような、傲慢な気持ちになっていた。俺の仕事は、信じて、委ねるところで終わりなのだ。


 では、何を信じて委ねるのか?


 黒田の指は、三つ目の言葉を探し当てていた。


 であう【出合う】

 (偶然、または、意外なところで)双方にとって意味のある相手として、顔を合わせるようになる。


 そうだ。俺は、この「出合い」を演出していたに過ぎない。人と本との、偶然で、運命的な邂逅。自分がその仲立ちをできること、それ自体が奇跡だったのではないか。


 では、その奇跡の瞬間に、自分が感じていたあの感情は、何だったのか。客からの感謝の言葉や、本の売上では決してなかった、あの胸が熱くなるような感覚。


 彼は、最後の言葉にたどり着いた。


 きざし【兆し】

 何か事態が起こることを感じさせる、わずかなしる

 し。


 これだった。


 客の表情が、ある一冊の本を手に取った瞬間に、ふっと変わる。硬い蕾が、ほころび始めるような、その微かな変化。新しい物語が、その人の人生に生まれようとしている「兆し」。


 自分は、その尊い「兆し」を見るために、カウンターに立ち続けていたのだ。いつの間にか、自分はその感動を忘れ、「結果」ばかりを求めるようになっていた。


 「手渡す」こと。


 その先に、人と本との「出合い」があると信じて「委ねる」こと。


 そして、そこに生まれる、新しい物語の「兆し」を見つけること。


 それが、黒田の問いに対する、彼自身が見つけた答えだった。


 彼は、顔を覆った。肩が、静かに震えていた。サヨが、いつの間にか彼のそばに立ち、温かいお茶を置いていた。


 彼が図書館を出る時も、サヨは黙って見送った。


 黒田も、何も言わなかった。


 ただ、入り口で一度だけ振り返り、カウンターに向かって、深く頭を下げた。



 数週間後。


 寂れた商店街に、小さな看板が掲げられた。『黒田書店』。そこにあるのは、カウンターと数脚の椅子だけ。本棚は、まだ空っぽだ。


 彼は、これから自分の足で歩き、心から「手渡したい」と思える本だけを、一冊ずつ、この棚に並べていく。


 そして、待つのだ。この場所で、ある人と、ある本との、運命的な「出合い」が生まれる瞬間を。


 そして、その人の人生に、新しい物語が生まれる、あの美しい「兆し」を、もう一度、この目で見るために。


 彼の新しい物語が、今、始まろうとしていた。

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