第8話 レンズの中の景色

 彼の世界は、スマートフォンの液晶画面の中にだけ存在した。


 大学二年生の海斗は、薄暗い自室で、投稿する一枚の写真に神経をすり減らしていた。友人と行ったカフェで撮った、何十枚もの写真。その中から、最も「自然体」で、「楽しそう」に見える奇跡の一枚を選び出し、指先で入念に色味を調整していく。


『授業の合間に、ふらっと。ここのラテ、マジ最高』


 短いキャプションを打ち込み、投稿ボタンを押す。すぐに、ぽつ、ぽつと「いいね」の通知が届き始める。海斗は、その通知の数に安堵の息を漏らした。


 本当は、その友人と会ったのは先週のことだし、今日の授業は億劫でサボってしまった。部屋は散らかり放題で、昼飯はカップ麺だ。だが、SNSの世界では、彼はいつでもお洒落で、交友関係が広く、人生を謳歌している「クールな俺」でいなければならなかった。


 その虚構の自分を維持するために、海斗は常に「絵になる」ネタを探していた。その日も、彼は話題のストリートアートの前で自撮りをするために、人でごった返す街を歩いていた。


 完璧なアングルを探して、スマホの画面に集中する。背景の通行人がフレームから消えるタイミングを待ち、自分の表情を微調整する。一歩、もう一歩と後ずさる。液晶の中の自分しか、彼の目には入っていなかった。


 そして、さらに一歩下がった瞬間、彼の身体は、何か柔らかく、しかし確かな抵抗にぶつかった。喧騒が、嘘のように消えた。


 驚いて振り向くと、そこはアスファルトの歩道ではなかった。彼は、静かな木漏れ日の小径に、呆然と立ち尽くしていた。道の先には、巨大な楠の図書館が、まるでずっと前から彼を待っていたかのように、そこに在った。


「……は? 何これ」


 彼の最初の反応は、やはり「ネタになる」だった。スマホを構え、その非現実的な光景を撮影しようとする。だが、なぜかシャッターを押す指が動かなかった。電波を探したが、圏外の表示。この場所の圧倒的な静寂と現実感の前では、彼の「クールな俺」はあまりに薄っぺらく、無力に思えた。彼は、ポケットにスマホをしまい込んだ。


 中に入ると、司書のサヨが静かに彼を迎えた。


「あなたのいる世界は、少し、賑やかすぎましたね」


 海斗は、彼女の穏やかな瞳から逃れるように視線を逸らし、ぶっきらぼうに答えた。


「別に……。ちょっと疲れてるだけ、っす」


 彼は、サヨに見せるための「自分」を、うまく演じることができなかった。


 やがて、彼は堰を切ったように話し始めた。SNSのアカウントを見せながら。そこにいる、完璧な「海斗」というキャラクターのこと。そして、その虚像を演じ続けることへの、言いようのない疲労と虚しさを。


「こいつは、俺なんです。でも、俺じゃない。もう、どっちが本当の自分なのか、分かんないんすよ」


 サヨは、彼のスマートフォンの画面を一瞥すると、静かに頷いた。


「あなたは、ずっと『見られる』ことに疲れてしまったのですね」


 彼女は書架へ向かい、一冊の本を持ってきた。それは、小説でも、哲学書でもなかった。


『日本の野鳥図鑑』


「はあ? 鳥……すか?」


 海斗は、拍子抜けして尋ねた。


「この本に載っている生き物たちは、自分が誰かに見られていることを知りません」


 サヨは穏やかに続ける。


「彼らは、誰かの『いいね』のために歌うのではありません。ただ、そこに在るから美しい。しばらくの間、『見られる』側から、『見る』側になってみてはいかがでしょう」


 海斗は、半信半疑でその図鑑を受け取った。ソファに腰掛け、ページをめくる。スズメ、カラス、ムクドリ。身近な鳥でも、名前や生態は全く知らなかった。精緻なイラストと、簡潔な解説。彼は、いつの間にかその世界に没頭していた。


 図鑑には、「地鳴き」と「さえずり」という言葉があった。


 「さえずり」は、縄張りを主張したり、求愛したりするための、いわば「パフォーマンス」としての声。


 対して「地鳴き」は、仲間との合図など、日常的に発する、ありのままの声なのだという。


(さえずり、か……)


 海斗は、自分のSNSの投稿を思った。あれは、まさしく「さえずり」だった。自分を大きく見せ、他者にアピールするための声。では、自分の「地鳴き」は、どんな声だっただろう。ありのままの自分。演じていない自分。そんなものは、もうどこにも残っていないような気がした。


 図書館を出ると、そこは元の雑踏の中だった。だが、彼の耳は、今まで聞こえなかった音を拾っていた。建物の隙間で鳴く、鳥の声。


 翌日、彼は大学へ向かう途中、いつもは通り過ぎるだけの江戸川の土手を、漫然と歩いていた。その時、鋭い鳴き声と共に、青い閃光が水面をかすめて飛んでいくのが見えた。


(まさか……)


 彼は、カバンから昨日もらった図鑑を取り出し、急いでページをめくった。


 カワセミ。翡翠のような美しい羽を持つ、水辺の鳥。


 写真だ。最高の「ネタ」になる。その考えが、一瞬、頭をよぎった。だが、彼はスマホを取り出さなかった。


 彼はただ、見ていた。


 カワセミが小魚を捕らえ、再び青い軌跡を描いて飛び去っていく、その一瞬を。


 誰の「いいね」もない。誰のコメントもない。彼と、一羽の鳥だけの世界。


 それなのに、今までSNSで何百の「いいね」をもらった時よりも、ずっと深く、満た足りた気持ちが、胸に広がっていった。


 海斗は、土手に座り込み、図鑑を膝に広げた。


 まだ、SNSのアカウントを消す勇気はない。自分が何者なのかという問いの答えも、見つかっていない。


 だが、彼は、液晶画面の外側にも、世界が、そして美しさが存在することを知った。


 「見られる」ための自分と、「見る」自分。その両方がいていいのかもしれない。


 彼は、自分の「さえずり」に疲れた時、いつでも帰ってこられる「地鳴き」の場所を、ようやく一つ、見つけたのだった。

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