第2話 スケッチに宿る眼差し
風に舞い、俺の手に収まった一枚の画用紙。それは、ただの紙切れではなかった。
そこに描かれていたのは、紛れもなく、今しがたまでの俺たち四人の姿だった。
健太が和樹の肩を叩いて大笑いしている。その隣で、和樹は少し困ったように、でも嬉しそうに目を細めている。少し離れた場所で腕を組み、呆れたような、それでいてどこかその光景を面白がっているような表情を浮かべる辰彦。そして、そんな三人を眺める俺、佐々木裕也。
驚いたのは、その描写の正確さだけではない。鉛筆の線一本一本に、温かい感情が込められているのが伝わってくるようだった。まるで、俺たちのこの何でもない、ありふれた日常の一コマが、かけがえのない宝物であるかのように。そんな優しい眼差しで、俺たちは見つめられていた。
「うおっ、何だこれ!俺たちじゃん!」
背後から覗き込んだ健太が、素っ頓狂な声を上げた。
「マジだ……。しかも、俺めっちゃ楽しそうに描かれてるな。なあ辰彦、これ、さっきのあの子が描いたんじゃねえの?」
「……だろうな。でなければ説明がつかん」
辰彦もスケッチから目を離さずに答える。その声には、普段の彼からは珍しく、純粋な感嘆の色が滲んでいた。「特徴を捉えるのが異常に上手い。ただの素人じゃないな」
「すごいね……」和樹がそっと呟いた。「なんだか、見てるだけでこっちまで笑顔になるような、不思議な絵だ」
友人たちの言葉が、俺の確信を後押しする。
そうだ。間違いない。これは、あの夏祭りの夜に出会った少女の名前。
「……香」
俺の唇から、ほとんど無意識にその名が滑り落ちた。
「かおり?」健太が聞き返す。「誰だよ、それ」
「多分……あの人の名前。佐々木香」
「はあ!?佐々木って、お前と同じ苗字じゃねえか!」
健太の目が、面白いおもちゃを見つけた子供のように輝いた。「マジかよ裕也!運命じゃん!ドラマかよ!」
けたたましく騒ぐ健太の隣で、辰彦がふっと鼻で笑った。
「日本で最も多い苗字の一つだ。偶然に決まっているだろう。落ち着け、猿」
「んだと、このイケメン気取りが!」
「事実を述べたまでだ」
また始まった二人の応酬も、今の俺の耳にはどこか遠くに聞こえていた。俺はただ、手の中のスケッチを見つめていた。
佐々木香。
本当に、彼女なのだろうか。だとしたら、なぜ俺たちの絵を描いた?そして、なぜそれをここに残していった?まるで、俺に見つけてほしかったとでも言うように。
「なあ、どうすんだよ裕也。追いかけるか?」
健太が俺の肩を掴んで揺さぶる。
「でも、もうどこに行ったか……」
和樹が公園の出口の方を目で追うが、そこに彼女の姿はもうない。名城公園は広大だ。名古屋城の天守閣を望む芝生広場から、江戸の風情を残すおふけ池、さらには深い緑に包まれた散策路まで、隠れる場所などいくらでもある。やみくもに探して見つかるものではないだろう。
「とにかく、もう一度さっきの場所に戻ってみよう。何か他に手がかりがあるかもしれない」
俺の提案に、三人は黙って頷いた。
俺たちは、先ほど彼女が座っていた柳の木陰へと足を向けた。だが、そこにはもう何も残されてはいなかった。ただ、初夏の風が柳の葉を揺らし、地面に柔らかな影を落としているだけだった。
「くそー、手掛かりゼロかよ」
健太が悔しそうに頭を掻く。
「仕方ない。今日は諦めるしかないだろう」
辰彦の冷静な言葉に、俺は反論できなかった。陽は傾き始め、公園を吹き抜ける風も少しずつ涼やかさを増している。
その日の帰り道、俺はほとんど口を利かなかった。健太が「あのスケッチ、くれよ!俺のイケメンな姿、部屋に飾っとくからさ!」と騒ぎ、辰彦に「貴様の部屋に飾ったところで、価値が下がるだけだ」と一蹴されていたが、俺は上の空で頷くだけだった。
北区の閑静な住宅街に佇む自宅アパートに戻り、俺は自分の部屋の机に、拾ったスケッチをそっと置いた。改めて一人で眺めると、その絵が持つ力がより鮮明に感じられた。
描かれた俺は、自分でも気づかなかったような、穏やかな顔をしていた。健太や辰彦、和樹という、性格も目指す未来もバラバラな友人たちと過ごす、この何でもない時間。それを、心の底から慈しんでいるような、そんな表情。
俺は、この絵を描いた人物に会いたい。
それはもう、単なる一目惚れの衝動ではなかった。
俺たちをこんなにも温かい眼差しで見つめてくれた彼女は、一体どんな人間なんだろう。何を考え、何を感じて、この世界を見ているんだろう。
知りたい。彼女のことを、もっと。
俺は窓の外に広がる、見慣れた名古屋の街並みを見つめた。明日も、大学の講義が終わったら名城公園へ行こう。明後日も、その次の日も。
いつかまた、会えるはずだ。
このスケッチが、風に飛ばされたただの偶然でないのなら。
もし、そこに少しでも「運命」なんてものが介在しているのなら。
俺は、まだ見ぬ彼女との再会を願いながら、机の引き出しから古いアルバムを取り出していた。夏祭りの記憶を確かめるために。
そして、その予感は、思ったよりも早く現実のものとなることを、この時の俺はまだ知らなかった。
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