天翔る龍と太陽の系譜
ルクルク
第一章 始まりの夏、運命のプレリュード 第1話 名城公園
2023年、初夏の名古屋。
気怠い午後の日差しが、大学の講義室に斜めに差し込んでいる。経済学概論の教授の声は、まるで心地よい催眠術のように学生たちの意識を微睡みの縁へと誘っていた。俺、佐々木裕也(ささき ゆうや)もその一人で、ノートの隅に意味のない落書きを繰り返しながら、早くこの時間が過ぎ去ることだけを願っていた。
「なあ裕也、今日の夜、合コンあるんだけど来ないか?相手、金城のかわい子ちゃん揃いらしいぜ」
隣の席から、悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いてきたのは、高橋健太(たかはし けんた)。高校時代からの腐れ縁で、そのコミュニケーション能力の高さと底抜けの明るさは、時に尊敬し、時に呆れるほどだ。
「興味ない」
健太の前の席から、振り返りもせずに冷たい声が飛んでくる。龍造寺辰彦(りゅうぞうじ たつひこ)。地元でも有名な企業の跡取りで、そのクールな佇まいと鋭い眼光は、彼に話しかけようとする人間を無意識に選別する。だが、俺たちにとってはただの口が悪い友人だ。
「またまたー。辰彦はどーせ、許嫁の純奈ちゃん一筋だもんなー。つまんねーの」
「馴れ馴れしく名前を呼ぶな。それと、許嫁ではない」
「はいはい」
健太と辰彦のいつものやり取りを、俺の向かいの席で倉本和樹(くらもと かずき)が人の好い笑みを浮かべて見守っている。彼もまた、高校からの仲間で、常に俺たちの中心で穏やかな空気を作り出してくれる、なくてはならない存在だ。
裕也、健太、辰彦、和樹。育った環境も性格もバラバラな俺たちが、なぜかこうしていつも一緒にいる。北区の閑静な住宅街で生まれ育ち、同じような景色を見てきたという共通点だけでは説明のつかない、不思議な引力のようなものが、俺たちの間には確かに存在していた。
講義が終わると、解放感から誰からともなく声が上がった。
「天気もいいし、どっか行くか」
「いいね!名城公園でもぶらつかねえ?」
健太の提案に異論を唱える者はいなかった。俺たちの通う大学は、名古屋の歴史と緑の中心地である名城公園にほど近い。庄内川から吹く心地よい風を感じながら公園へ向かうのは、講義後の定番コースになりつつあった。
広大な公園は、平日にもかかわらず多くの人々で賑わっていた。芝生広場で談笑する学生グループ、ジョギングに汗を流す人、観光客。その誰もが、初夏の穏やかな陽光を全身で享受しているように見える。
「それにしても、平和だな」
和樹がしみじみと呟く。
「平和が一番だろ。ま、俺はもうちょい刺激が欲しいけどな!」
健太がおどけてみせると、辰彦が「刺激が欲しければ、一人でバンジージャンプでもしてこい」と吐き捨てる。いつもの光景だ。俺はそんな彼らのやり取りを聞きながら、視線は自然と、江戸時代の風情を残す「おふけ池」の方へと向いていた。
その時だった。
池のほとり、柳の木陰に、一人の女性が座っていた。
白いワンピースが、木漏れ日を浴びてきらきらと輝いている。彼女は膝に置いたスケッチブックに視線を落とし、一心不乱に鉛筆を走らせていた。風が吹き、彼女の長い黒髪がふわりと舞い上がる。その瞬間、俺の心臓が、理由もなく大きく音を立てた。
(どこかで……会ったことがある?)
デジャヴ、というにはあまりにも鮮明な感覚。脳裏に、遠い昔の記憶の断片が閃光のように明滅する。蒸し暑い夏の夜。鳴り響く祭囃子。色とりどりの浴衣の群れ。そして、金魚すくいの屋台の前で、真っ赤なリンゴ飴を手に、こちらを見てはにかんだ、一人の少女――。
「……おい、裕也?どうした、固まっちまって」
健太が俺の肩を揺する。
「お、なんだなんだ?あの子か?確かに、すげえ美人じゃん。おい、行けよ、裕也!お前の十八番だろ、そういうの!」
「やめておけ、健太。集中している人の邪魔をするのは無粋だ」
辰彦が冷静に制止する。和樹は何も言わず、ただ心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
友人たちの声が、どこか遠くに聞こえる。俺の視線は、彼女に釘付けになっていた。あの夏の日の少女なのだろうか。いや、そんなはずはない。あれはもう10年以上も前の、子供の頃の淡い記憶だ。だとしたら、この胸の高鳴りは何なんだ?
彼女はふと顔を上げ、完成したらしいスケッチを満足そうに眺めた。そして、俺たちの存在に気づくこともなく、静かに立ち上がると、スケッチブックを抱えてゆっくりと歩き去ってしまった。
まるで魔法が解けたように、俺の体の緊張がふっと抜ける。
「あーあ、行っちまった。チャンスだったのによー」
健太が残念そうに声を上げる。俺は何も言えず、ただ彼女がいた場所をぼんやりと見つめていた。
その時、一陣の風が吹き抜け、彼女が座っていた場所に残されていた一枚の紙が、ひらりと宙を舞った。俺は無意識に駆け出し、地面に落ちる寸前でその紙を掴み取っていた。
それは、一枚のスケッチだった。
描かれていたのは、俺たちが今しがたまでいた、四人の姿。
楽しそうに笑い合う健太と和樹。少し離れて腕を組む辰彦。そして、少し困ったように、でもどこか嬉しそうに彼らを見つめる、俺自身の姿。
その驚くほど正確で、温かい眼差しで描かれた絵に、俺は言葉を失った。
「……香」
俺の唇から、無意識にその名前が零れ落ちた。そうだ、あの夏祭りの少女の名前は、確か――佐々木香(ささき かおり)。
俺と同じ、苗字。
運命なんて、信じていなかった。でも、この瞬間、俺の中で何かが音を立てて動き出したのを、確かに感じていた。
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