14話
峻はゆっくりと黒板に近づき、「記憶を失い、現実に戻る」の文字を消した。
黒板の文字を消し終えると、講堂の入り口の扉に視線を向けた。
「進むって言ったら…、扉はあそこだけだよな。開けてみようか。」
峻はゆっくりと扉に手をかけて押してみるが、びくともしなかった。
「ん?開かない…。入るときは普通に開いたのに」
陽菜乃も近づき、扉を押して確かめる。
「本当だ…、固く閉まってる。」
陽菜乃はポケットから真鍮の鍵を取り出し
「鍵穴もないね」
二人は顔を見合わせ、困惑の色が濃くなる。
峻は黒板の前に立ち、ゆっくりと息をついた。
頭の中を整理しようと、手にしたチョークで思いつく言葉や記憶を次々と書き出す。
「光の源に身を投じる」「紙切れ」「鍵」…。
書きながら、思い出していた、狭間の入り口の通路で光に飛び込んだ時のことを。
結局あのときは現実世界に戻れなかった、きっとあの選択は間違っていたのだろう。
「光の源…。」考えても一向に思いつかない。
黒板に並べてみた単語を眺めるが、何も思いつかない。ただ時間だけがむなしく過ぎてゆく…。
春川はノートを取りながら、何度目かの欠伸をかみ殺した。
今日も峻はサボったらしい。
教授は黒板の下半分をせっせと埋めている。
(どうせ上の方は誰も届かないのに、無駄に広いよな。)
そんなことをぼんやり考えて、ふと視線をずらす。
黒板の左下に、何やら書かれている。
最初はチョークの汚れかと思ったが、だんだん鮮明になる。文字のようだがここからでは小さくて読めない。
講義が終わると、椅子の音が一斉に響いた。
学生たちが教室を出ていく中、春川は足早に黒板へ近づいた。
《光の源に身を投じる》
「…何だこれ。」 見覚えのある字だ。
峻の字に似ている気がする。小くて少し斜めに傾いている。
「光の源…、光の源…。」
「んー。太陽の装飾なら天井にあるけど。」
「光の源と言ったら太陽だろ。」
「…試してみるか。」
チョークを取り、黒板に一行だけ書いた。
《天井の太陽》
春川は書き終えた手を下ろし、少しだけ黒板をじっと見つめた。
何かが起きるかもしれない、そんな妙な期待があった。
だが、黒板の文字はただ白くそこに残るだけで、何も起こらない。
「…なんだよ、やっぱり何も起きないか。」
肩の力が抜け、軽くため息をつく。
他の学生たちの声ももう遠ざかって、教室は静かだ。
しばらく立ち尽くしていたが、やがて諦めるようにチョークを置いた。
「…まあ、いいか。」
カバンを肩にかけると、黒板を最後に一度だけ振り返ってから、春川は静かに教室を出ていった。
二人は黒板の前で行き詰まったまま、沈黙が続いていた。
峻はチョークを握りしめたまま眉をしかめ、さっき書いた文字を見ていた。その時突然新たな文字がにじむように浮かび上がってきた。
《天井の太陽》
「うぉっ!文字が出たぞ。」
陽菜乃も目を見開き、黒板を指さした。
峻は一瞬息を呑み、それからすぐに天井を見上げた。
「天井の装飾…そうか!」
講堂の天井には、太陽をかたどった装飾がある。
「春川だ…。」
峻は声にならない声で呟いた。
陽菜乃も天井を見つめながら言った。
「光の源って、あの太陽の装飾の事?」
峻は小さく頷き、視線を装飾に移した。
「たぶん…。」
陽菜乃は息を呑んでから、峻の手をそっと握った。
「あの装飾の中にヒントや仕掛けがあるのかな。」
峻は装飾を見つめながら、
「…でも、あそこに『飛び込む』なんて無理だよな。」
峻は再び黒板を振り返る。
《光の源に身を投じる》。
陽菜乃も首を傾げる。
「実際に飛び込むってことじゃないとしたら…?」
峻は腕を組み、黒板の文字をにらむ。
「光の源…太陽の装飾が『源』なんだろ。でも身を投じるって、どうすりゃいいんだ。」
しばらく黙って二人で考える。
陽菜乃「…光を使う?何かを照らすとか。」
峻が顔を上げる。
「照らす…?」
陽菜乃「『光の源』を、別の場所に持ってくるって考えは?」
峻は少し考え、ゆっくり講堂を見回す。
「持ってくる…いや、映す、か?」
陽菜乃が振り向く。
「映す…?」
峻はゆっくりうなずく。
「そうだ。太陽の装飾を、どこかに映せばいいんじゃないか。」
そこでふと視線を落とし、講堂の後方に視線を移す。
「…あの布の裏の鏡。」
陽菜乃も思い出したように小さく声を上げる。
峻「光の源を鏡に映して、その場所に『身を投じる』。そういう意味かもしれない。」
陽菜乃「…なるほどね。」
峻も頷きながら歩を進める。
「あの言葉は『光の源に身を投じる』だ。」
「鏡に太陽を映して、その『中』に自分が立つ…とか?」
陽菜乃が目を見開く。
「つまり、鏡に装飾がちゃんと映る位置を探すってことね。」
峻「そう。鏡に太陽が全部映る位置を見つける。」
「その映った『光の源』の中に、自分を投げ込む、要するに同時に移りこむ」
陽菜乃が小さく息を飲む。
「身を投じるって、そういうこと…!」
峻は頷いて、講堂の後方へ向かいかけると振り返った。
「…ありがとう。」
陽菜乃が首を傾げる。
「何が?」
峻はわずかに視線を逸らしながら、短く答える。
「陽菜乃が一緒に考えてくれるから。」
陽菜乃は照れ隠しするように肩をすくめ、小さく笑った。
「…変なこと言わないで。さ、行くわよ。」
二人は歩き出し、奥に掛けられた布の前に立った。
峻がゆっくりと布をめくると、大きな鏡が現れる。
それを前にして、二人は真剣な顔になる。
峻「さて…ここからが本番だな。」
峻は鏡を前に立ち止まり、ゆっくりと後ろへ下がっていく。
峻「見える、太陽が映ってる。」
一歩、また一歩と下がるにつれ、天井の装飾が鏡の中に現れてくる。
けれど峻は眉をひそめ、ふと立ち止まった。
「あれ?待て、講堂の構造上、太陽の装飾と俺が同時に鏡に映ることはない。反射の角度的に、同一フレームには入らないぞ。」
陽菜乃は少し首を傾げてから、ふっと軽く笑った。
「じゃあさ、無理に『同時』に映らなくていいんじゃない?
装飾がすっぽり鏡に収まる場所…そこを見つければ。」
峻は一瞬ぽかんとしたが、すぐにうなずく。
「…なるほど。光の『源』に身を『投じる』って、つまりは太陽の映り込みの中心に、自分の位置を合わせるってことか。」
峻は鏡を見据え、再び足を動かし始めた。
「よし、装飾が全部収まるポイントを探そう。」
峻は陽菜乃の言葉に背中を押されるように、ゆっくりと鏡を見つめたまま歩みを進めた。
数歩下がるたびに、鏡の中の太陽の装飾が形を整えていく。
「…もう少し。」
つぶやきながら、さらに慎重に位置を調整する。
やがて、鏡の中いっぱいに太陽の紋章が歪みなく収まりきるポイントに立つと、峻は小さく息を吐いた。
「ここだ。」
陽菜乃も鏡を覗き込みながら頷いた。
「綺麗に映ってるね。」
峻は太陽の紋章を映したまま立ち尽くす。
「よし、じゃあ、次は…どうするんだ?」
陽菜乃が周囲を見回して、すぐに視線を足元に落とす。
「…足元に何かない?」
峻も慌てて下を見る。
「足元?何も…いや、ちょっと待て、あるぞ。」
誇りにふさがれているが、これは鍵穴だ。。
「…鍵穴っぽい。」
陽菜乃が小さく手を打った。
「ほらね!」
目を輝かせて、鍵を峻に向かって差し出す。
「この鍵、使ってみよう!」
峻はぐっと鍵を握りしめ、無言で頷いた。
そして慎重にその鍵を小さな鍵穴に差し込む。金属が擦れる感触。
「…いくぞ。」
カチリ、と乾いた音が講堂の静寂を破った。
それに呼応するように、背後の扉からも鈍い「ゴウン」という重い音が響く。
峻はゆっくりと顔を上げ、陽菜乃と目を合わせた。
「…開いた。」
陽菜乃も息を弾ませながら頷く。
「うん…行けるよ。」
峻は鍵をそっと引き抜き、深く呼吸を整えた。そしてゆっくりと扉のほうへと歩みを進めた。陽菜乃もそのすぐ横に並ぶように歩き出した。
夕暮れの長い影が二人の足元をゆっくり伸ばす。
陽菜乃はそっと峻の腕に触れた。
「ねぇ、峻…怖くない?」
その声はすこし震えていたが、顔には見せない。
峻は一瞬迷ったが、優しく彼女の手を握り返した。
「俺も怖いよ。でも、陽菜乃がいるから勇気が出るんだ。」
陽菜乃はふっと笑い、小さく頷く。
夕暮れの柔らかな光が、陽菜乃の髪や顔を優しく染めていた。
彼女は少しだけ肩をすくめて、小さく息をつく。
「ありがとう、峻。私、帰りたいって言ったけど、あなたと一緒ならどこでもいいかもって思えてきた。」
陽菜乃の瞳が夕日にきらりと光る。
「本当?」
「うん。半分だけね!」
陽菜乃の言葉を聞いて、峻は心の中でそっと反芻した。
(あなたと一緒ならどこでもいいかもって思えてきた。)
その言葉が何度も頭をよぎる。
半分でもいい。そう思いながらも、口には出さなかった。
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