赤の瞳のヴァチェスラフ

鱈野 房

第1話 英雄の凱旋


 掌の上に、くしゃくしゃに丸まったゴミのようなものがあった。

 それを見つめ続けていたヴァチェスラフは、それを大事そうにポケットにしまいこむと、濃いガーネットの宝石を溶かしたような赤い瞳で空を見上げた。

 遠いアトナの山景に橙の色が差し、その稜線にかぶさるようにして浮かんだ綿菓子の雲の群れには、すこしだけ黄昏の焦げ目がついていた。

 手紙には、昼頃には着くだろうと書いてあったが、予定はだいぶ遅れているようだ。街道から繋がる道に待ち人の姿はいまだなく、このまま夜になるかと思われた。

 今年、成人の儀を控えたヴァチェスラフは、村の寺子屋通いをやめて、今は毎日の野良仕事を手伝っている。畑の仕事は好きだった。やることは多いが、照り付ける太陽を浴び、山からおろしてくる風を読んで、雨と雲たちが行き過ぎる空を感じながらする農作業は苦ではなかった。このまま暮れの成人の儀がおわれば、晴れて畑を継いで、村の大人たちの仲間入りができる。

 そのヴァチェスラフのもとに、街に出て冒険者として成功した兄から、「帰る」という報せが来たのは、つい先日のことだった。

 山間の農村には不釣り合いなほど優秀だった兄のギャムレットは、村の名主の後押しもあって、遠くの街に行った。そこで教育を受け、大学にでも行くのかと思えば、「冒険者」という、そのころまだ幼かったヴァチェスラフには、よくわからない仕事に就いた。

 だが持ち前の才能と如才なさを存分に発揮したギャムレットは、冒険者として見事に成功してみせた。

 街に出て成り上がっていく人間の常として、成功したあとには田舎の身内のことなど忘れたように振舞う者も多い。そうしなければ、都会の競争についていけないのだという。だが、ギャムレット兄は違った。

 月日を追うごとに順調に仕送りの額は増え、そのおかげもあって、ヴァチェスラフの家は、しがない貧農小作から、こじんまりとしてはいるが、自分の土地を耕して食べていく自由農となることができた。

 冒険者が稼げる仕事であるというのは、本当らしい。それでも、はじめの頃は、随分と無理をして仕送りしていたのではないだろうかと、今では思う。兄の努力には、感謝してもしきれない。

 実のところ、ギャムレット兄が街に出たのは、ヴァチェスラフがまだ五歳の頃で、正直に言えば、あまり明確な思い出があるわけではない。ただ、何をやらせても優秀で、ちょっとした冗談とイタズラの好きな年の離れた明るい兄、というイメージがあるだけだ。それでも、イジメられたわけでもないし、子供にしては飛びぬけて高かったその背でもって、よく肩車してもらったことだけは覚えている。

 たまに村の人からは、自由に生きている兄を羨ましく思うことはないのかと訊かれることもあったが、ヴァチェスラフはそのたびに、首を横に振った。

 ギャムレットが村にいたままだったら、ヴァチェスラフは貧農小作の三男坊でしかなかったから、おそらくは、村を出て行かなければならなかっただろう。しかも、兄のような名主の後押しもなにもなく、だ。

 とてもではないが、それで兄のように生きて行けたなどとは、ヴァチェスラフには考えられなかった。

 そうであれば、ギャムレットがしたことは、村や家族を捨てたのではなく、間違いなく、弟であるヴァチェスラフのための選択だったのだ。

 そのギャムレットが、手紙の送り主の欄に堂々と、『The Viscount Labyrinth』と書くようになった頃、大陸でも有数の大きさの迷宮を抱える大都市カローネス市に稼ぎの足場を移した。二年ほど前のことだった。

 当然のようにそこでも活躍し、『猛牛』の二つ名でよばれるようになると、ギャムレットの存在は、『出稼ぎに出たヴァチェスラフの兄』ではなく、村の人々にとっての『誇り』となった。

 最近では、どの家の子供たちも、冒険者になるために街に出たいと、鼻息を荒くしている。しかしそれは、あくまでも言い訳だ。誰の言い訳かと言えば、それら子供たちの親たちの言い訳だった。

 ヴァチェスラフたちの一家が、ギャムレットの成功によって土地持ちになったという実例を目の当たりにしていた村の大人達は、その成功に嫉妬していた。子供たちはただ、子供なりの憧れでギャムレットの成功譚を、よくあるお伽話のように楽しんでいただけだったが、大人たちの方はといえば、自らの子供たち――とくに、次男次女以下の――を都市に冒険者として送り出し、その子があわよくばギャムレットのような有名な冒険者となって、その幸運の果実を分け与えてくれることを、強く望んでいた。

 何もしていない自分が、成功者としての括りに入れられていることに奇妙さを覚えながらも、ヴァチェスラフも、兄のことを誇りに思うのは同じだった。

 そのギャムレットが帰ってくる。

 村を出て行ってから、初めて。実に十年ぶりの里帰りだった。

 手紙には、常の何倍もの仕送りが添えられていて、故郷に錦を飾ろうとしているのがわかった。だから、名主のアドレーにも相談して、村を挙げての歓待の準備も整えた。

 そのせいもあって、ここ数日は、村全体が静かな熱気に包まれていた。今も街道に繋がる道にある少し開けた原っぱには、村の大勢の人たちが集まって、静かにその到着を待っている。

 ことはすでに、出稼ぎ人の里帰りではなく、英雄の凱旋だった。

 身内である者としては、それがなおのこと誇らしかった。

「ヴァチェスラフ」

 静まり返って英雄を待つ人々の間に、コマドリの囀るような美しい声が響いた。

 いつもより、すこしだけ抑揚を抑えた調子で自らを呼ぶ声の方に振り向くと、そこには、名主の娘のゾラがいた。ヴァチェスラフより三つ年上で、村娘にしては整った目鼻立ちと、澄んだ青い瞳が特徴的な美人だった。村の外を知らないヴァチェスラフにとっては、間違いなく、この世で一番美しい憧れのひとだった。

「ヴァチェスラフ、ギャムレットはいつ頃に着くと、手紙にはあったの?」

「昼頃に着くって書いてあったよ」

 たなびく栗色の髪がふわりと揺れて、おろしたばかりのような真新しい黒のドレスに落ちかかる。その合間で、夕陽を受けて明るく映える青い瞳に射抜かれると、ヴァチェスラフの胸は、収穫祭で打ち鳴らされる太鼓のように高鳴って、口からは頓狂な言葉がまろび出た。

「何を言っているのよ、お昼なんてもうとっくに過ぎているじゃない。それとも、あなたにとっては晩祷の鐘が鳴ってもお昼なのかしら?」

「いや、そうじゃないけど。きっと、何かで遅れているんだよ。久しぶりに帰ってくるんだ。街に出た兄さんからすれば、懐かしい風景ばかりだろうから、アトナの山やクロムスタフの森を楽しみながら帰ってきてるんじゃないかって、僕は思っているんだけど――」

 ヴァチェスラフの言葉に、ゾラが目を丸くした。そして、少しだけ首を傾げる。

 それをみたからというわけでもないが、ヴァチェスラフの方も、内心で首を傾げた。どうしてゾラは、そんなことを訊くのだろうか。

「兄さんは、好きだったから……森で遊ぶ……のが」

 そのこと自体に不安を感じて、ヴァチェスラフの語尾が小さくなって、途切れていく。 

「本当にギャムレットは、今日帰ってくるの?」

 問い詰めているというよりは、心配をしているような口調で、ゾラが質問を重ねて来る。

 しかし、そうは言われても、手紙に書いてあったのは間違いなく今日の日付で、それ以上のことは、ヴァチェスラフにもわかるわけがなかった。

「手紙は今あるの?」

 嘘など言うわけはないと、わかっている。そう前置きしたゾラが、それでも手紙の真偽を確かめたいと、言いだした。偶然というべきか、その手紙を持っていたヴァチェスラフが、ズボンのポケットからそれを取り出す。

 ヴァチェスラフの手に、グシャグシャに丸まった手紙があるのをみて、ゾラが息を飲んだ。それを不思議にも思わず、丁寧に丁寧に広げてから、先ほどまで綺麗だったその表情を、いつの間にか苦しげに歪めていたゾラに渡す。

 所々が破れ、滲んだインクの文面を、なぞる様に追ったゾラは、一言、「本当なのね……本当に」と、ぽつりと呟いた。

 ゾラが何を言いたいのかわからずにヴァチェスラフがまごついていると、そっと肩を掴まれた。見ると、名主のアドレーがいつの間にか傍らに立っていて、

「ゾラ……間違いなく今日来る。だが、こういう時、正しく時間通りにとはいかないものなのだよ。お前たちは知らないだろうが、過去にもこういうことは、何度かあった。大人たちには、わかっていることだから」

「でも、お父さん……」ゾラはそう言うと、下を向いてしまった。ヴァチェスラフは、その目じりから、何か透明な雫のようなものが落ちていくのを見た。それと同時に、ゾラの細い指が持っていた皺だらけの紙が、雑草の生い茂る地面に向かって、ひらりと舞い落ちた。アドレーは、そのくしゃくしゃの手紙のようなものを苦々し気に眺めてから拾い上げ、ヴァチェスラフに渡す。

 ゾラが捨てたゴミを、どうして自分に渡してくるのだろうか。よくわからなかった。

「ヴァチェスラフ……気を、強く保つんだぞ」

「……? あ、はい……」

 その言葉が何を意味しているかもわからず、曖昧な返事をしたヴァチェスラフは、気づかわしげな視線を向けてくるアドレーに、背中をやさしく叩かれた。そうしてから、名主の親子はヴァチェスラフの元から、ゆっくりと離れて行った。

 取り残されたように立ち尽くすヴァチェスラフには、ゾラとアドレーが何を言いたかったのか、よくわからなかった。ただ、その脳裏には、ゾラの目から零れ落ちた美しい何かの光が強く焼き付いていた。

 あれは一体、なんだったんだろう。

 人の眼から流れ出るものがなんであるのかを知らないわけではない。だが、あれがもし『涙』というものであるのなら、どうしてそれを今、ゾラが流さなければならないのか、わからなかった。

 疑問が、心の中に黒い染みを広げ始めた時、原っぱに居た誰かが「ギャムレットが来たぞ!」と声を上げた。

 それを合図にして、いましがた心を支配していた違和感を、手元の紙屑とともに捨て去ったヴァチェスラフが、その目を輝かせ、街道のある方を見た。




 もはや傾く太陽は、その身を夕陽へと変え、東からの道は、鈍色の影を差して黄昏ていた。そう多くはない人の流れに踏みしめられ、ようやくに雑草が繁茂するのを防ぐことで出来上がった田舎道に沿って、綺麗な星が煌めいた。

 整然として歩み来るそれらが近づくにつれ、ヴァチェスラフと村人たちが共有していた静寂のなかに、言葉にならないざわめきが広がっていく。

 まるで地上に落ちた空の星たちが、空に還るべく、ゆるやかな山道を登りくるような、整然として、しかし異質な煌めきを放つ光たちの正体は、十数人の偉丈夫たちが身につける磨き抜かれた金属の甲冑――それらが照り返す、夕陽の輝きだった。

 やがて整然とした行列が立てる金属の擦過音が、規則正しい行進の足音と共に鳴り響き、そこに荷馬車のが加わると、村人たちは普段、まったく感じることのない暴力の気配のようなものを感じて、その背筋に冷たい汗を走らせた。

 平時にはまず見ることのないその光景、その集団を、人々が息を飲んで見守っていると、「子爵旗掲揚!」という大音声が、辺りに響いた。

 すると、長くはない列の最後尾から、恐ろしく太い旗竿が夕空に向かって立ち上った。その先には、巨大な旗が舞っていた。

 その意匠は、迷宮冒険者の所属を示す『銀の面籠を戴く樫の木の城門』と、そそれを両側からを支えるようにして立つ二頭の雄牛が描かれている。そして、その上部には大陸迷宮組合のモットーである「我らが歩みこそ勇気の験」が、そして底部には、ギャムレット個人を示す「勇猛果敢たる我らが迷宮の子爵」という文字が刺繍されていた。

 夕景に夜を引くアナトの尾根から、冷たい風が吹き下ろし、巨大な錦繍の旗が翻る。それはまさに、冒険者・迷宮子爵の称号を持つ『猛牛のギャムレット』のための旗だった。

 そこでようやく、列を成す甲冑姿の人物たちが、本当に迷宮組合の冒険者たちだとわかった。

 その到着を待ちわびていた人々の間から、わずかに感激の声が漏れる。だがそれは、期待よりも、むしろ嘆きの色を帯びて辺りに広がっていった。

 列が村人たちの元までたどり着くと、「全隊とまれぇ!」と号令がかかる。先頭にいた人物が、近場の村人となにやら少し話し込む。すると話しかけられた男――辻のところのファルゥだった――が、一度、ヴァチェスラフの方を見てから「あいつだよ」と言って指さした。

 なにもファルゥに尋ねなくてもいいのに。普段から仲よくしてくれている幼馴染は、何かに酷く戸惑っているようだった。そのファルゥの指先からヴァチェスラフまで、空中の見えない線で辿った甲冑姿の大男が、銀髪赤眼というわかりやすい特徴を持ったヴァチェスラフを見つけると、獲物を見つけた狩人のように鋭い眼光を飛ばしてきた。ギラつく視線に射すくめられて、胸当たりが苦しくなる。怖いわけではないが、その迫力に抗えるほど度胸が据わっているつもりもないヴァチェスラフは、その圧力を感じるような視線から逃げるように、兄の姿を探して意識をさまよわせた。

 ギャムレットが村を出て行って、十年が経った。当時は五歳だったヴァチェスラフのことなど、わからないだろう。ヴァチェスラフの方では、ギャムレットの顔は、覚えている。大きく人相が変わっていなければ、わかるはずだった。だから、自分の方から声を掛けるべきだと思ったが、正直なところ、どの人が兄なのかは、ヴァチェスラフにもわからなかった。

 そうしていると、先頭の男がきびきびとした動作で歩みを進め、ヴァチェスラフの元まで来ると、「白に近い銀の髪と、赤い瞳……」と確かめるように呟いてから、

「君が、ロート村出身のギャムレット迷宮子爵の弟であるヴァチェスラフか?」

 と尋ねてきた。

 村の男たちと比べて二回りは大きな体躯を、ぴかぴかに磨かれた鎧で包んだ、黒い坊主頭が特徴的な男の瞳が、ヴァチェスラフを睨みつけるように見下ろしている。

 兄ではなく、ましてや普通の人でもないという、そのあまりの迫力に返事もできず固まっていると、もう一度、「ギャムレットの弟ヴァチェスラフか?」と訊かれた。

 そこでようやく、弾かれたように何度も頷いたヴァチェスラフを見て、すこしだけ眉間にしわを寄せた男は、視線を周囲の人々へ向けながら「間違いないか?」と念を押すように尋ねた。

 他の者たちが「そうだ」とか「間違いなく、そいつがヴァチェだ」と応えると、男は顔をしかめてから振り返り、後方で待機するような形になっていた隊列に向かって手を挙げた。

 冒険者の列は、坊主頭の冒険者の後ろ――ヴァチェスラフの目の前にまでくると停止し、道を空けるように二手に分かれた。

 何をしているのか、まったくわからない。それよりも、兄はどこだろう。

 視線をさまよわせて、屈強な男たちの顔を確認してみるが、そうと思える人物はいなかった。兄の顔を覚え違いしているのだろうか。だが、それにしては、おかしい。今しがた、目の前の男は確かにヴァチェスラフを確認したはずで、そうであれば、この目の前の冒険者たちは、自分をヴァチェスラフだとわかっているということになる。だが、そんなヴァチェスラフに、弟よ、と呼びかけて来る人はいなかった。

 代わりに、差し出されるようにして、荷車が目の前に止まった。

 そこに乗せられていたのは、何か大きな作りの頑丈そうな箱だった。それは、真っ黒に塗られているのか、それとも黒檀かなにかでつくられているのか、とにかく真っ黒で、長方形の、なにか不吉な雰囲気の箱だった。どこかから、「ギャムレット……」という声がいくつも聞こえた。その中に、「嘘よ……」というコマドリの声が混じる。

 その声が聞こえないかのようにして、ヴァチェスラフは荷車を曳いてきた荷馬を見ていた。仕事の出来そうなしっかりした体つきの荷馬は、よく調教されているらしく、見知らぬ人に囲まれても、緊張の色一つ見せずに落ち着いていた。村に何頭かのいる農耕馬とは違って、都会から来ると、馬も大したものなのだなと、ヴァチェスラフが変な感心をしていると、目の前に、先ほどの男とは違う鎧姿の人が来た。

 金髪のショートヘアに、あばた顔に両の目尻が悪魔のように吊り上がった、目つきの悪い冒険者だった。体格は、坊主頭の男と比べればかなり小さく、村の男衆と同じくらいの背丈だった。

 その金髪の人が「お前が、ヴァチェスラフか?」と言った。

 その声を聴いた瞬間、ヴァチェスラフは、その意識を混乱の池に投げ込まれた。

 目の前の悪魔のように凶悪そうな顔をした冒険者は、その印象とは真逆の、透き通ったガラスの鈴が鳴り響くように澄んだ美しいソプラノの声をしていた。見た目の印象から激しく乖離したその声が、果たして本当に目の前の人間から発せられた声であるのかの確信が持てずにまごつくと、その冒険者は、ずかずかと近くに依ってきて、なんの遠慮もなくヴァチェスラフの眼を覗き込んできた。

「本当に赤いんだな」

 それが自分の瞳について述べた感想であるとわかるまで、少し時間がかかった。そして、その言葉に何の意味があるのかわからずにいると、「頭の回転は鈍そうだ」という評価がされた。

 さらになにかを言いかけたところで、坊主頭の男が、女の胸板を思い切り叩いた。

「くだらないことばかり言うなら、黙ってろ、ギュルナラ」

 手甲と胸甲が激しくぶつか合う金属音が辺りに鳴り響き、周囲の人々が思わず身を竦ませた。ヴァチェスラフの眼には、常人なら吹き飛びそうな勢いで叩かれたように見えたが、ギュルナラと呼ばれた女冒険者は、叩かれたことなどなかったかのようにして「はいはい、わかった」というばかりだった。

「悪いな。ヴァチェスラフ」坊主頭の男が、そう言った。

「あ、いえ……」

 あいかわらず何を謝られているのか、よくわからずにいると、「肝は据わってる」とギュルナラが言った。

 それを一度睨みつけてから向き直った男が「俺はティムールだ。あいつはギュルナラ。俺たち二人はカローネス市マルバラ同胞団の一員であり、同胞団の創設者ジェネラルであるギャムレット子爵の介添えだ。冒険者としては、マルバラ市からの同期でもある」

 マルバラというのは、ギャムレット兄が最初に行った街だった。そこで冒険者になった同期ということは、十年にもなる旧い付き合いの人達ということだろう。

 差し出されたティムールの手は、体中を覆う鎧と同じように、ギラリと光る手甲に包まれていた。その右手を恐る恐る握り返すと、硬く冷たい感触が掌から伝わって、ヴァチェスラフの心臓をキュッと縮こまらせた。そこに、このティムールという男の体温は少しもなかった。兄の仕事がどんなものか、それだけで、わかったような気がした。

「こんちには、ティムールさん、ギュルナラさん。それで、あの……兄はどこですか? 僕の勘違いでなければ、列にはいないようなんですけれど」

 その言葉にティムールは頷き、軽く目をつぶると、ヴァチェスラフを懐に引き寄せて、その肩を抱いた。そして、神妙な表情を作ると、

「ギャムレットは――あの中に」

 抑揚のない声でそう言い、荷車に載った箱の元まで、ヴァチェスラフを導いた。ギュルナラの方をみると、目を覆いながら、天を仰いでいた。

 それから、黒塗りの箱の方を見直すと、その表面に、光沢のある銀の塗料で描かれた竜胆の花が見えた。その昔、海の向こうからやってきて、いくつもの奇跡を起こし、やがて天に昇っていったという神話の姫君の意匠である。それが使われるのは、大都市を運営する政治家や、社会に貢献した富豪、そして、迷宮攻略者である爵位持ちの冒険者の葬儀の時だけだった。

 偉い貴族の棺。そうとしか思えないものが、目の前にある。

 この中にいるというのは、

「一体、どういうことですか」

「君のお兄さんは……実に……実に、残念だ」

 ヴァチェスラフの肩からそっと手を放し、ティムールが天を仰ぐ。

「いやぁあああああああ!」

 悲鳴のような声が背後で上がると、ヴァチェスラフの傍を駆け抜けたゾラが、黒い棺桶に縋りついて哭き始めた。

「どうして、どうしてよギャムレットお兄ちゃん! 帰ってきたら、帰ってきたら私と……私と……ああああああああああああああああああ!」

 彼女が、どうして貴族の棺桶に縋りついて泣いているのか、意味が分からなかった。ロート村は大都市の支配下にあるわけでもないのに、どうして……。

「ヴァチェスラフ、彼女は?」

 ティムールが、その大きな体格に似合わず、おずおずと言った様子で訊いてきた。

「名主のアドレーさんの娘のゾラです」

「へぇ……。よく言ってた婚約者って子か。マジで居たんだな、ハッタリじゃなくてよ」

 ギュルナラの言葉に、「そうなのか?」とティムールがこちらを見ながら言った。

 婚約者がいたことを今初めて知ったし、貴族の棺を見てゾラが泣くというのなら、それは多分、貴族なのだろうが、そんな人物を、ヴァチェスラフが知っているわけがなかった。知っている前提で声を掛けて来るということ自体が、不思議だ。

「いえ、わかりません。あの……それで、あの棺に入っているのは、どなたなんですか?」

 そういった瞬間、二人の冒険者は顔色を変えたが、ヴァチェスラフの言葉を咀嚼し、その意図を汲み取ると、表情をやわらげた。

「純朴な弟と婚約者を相手にこれか……ゴミ野郎」

 そうして、吐き捨てるように言うと、ギュルナラはその場を離れ、どこかに行ってしまった。

 残ったティムールは、ヴァチェスラフを憐れみの眼でもって見た。

「そうか、そうだよな、ヴァチェスラフ。君にとってギャムレットは、君の『兄貴』でしか、ないものな……」

 ティムールは、深呼吸を一つしてから、居住まいをただした。

「ロート村のギャムレットは、冒険者となった後、マルバラの迷宮において、それまで誰も倒せなかった牛頭人身の支配者ロードを倒し、迷宮攻略者の一人となった。それによって、あれだ――」ティムールが、掲げられままの錦繍旗を指さした。「マルバラ市から、倒された支配者の代わりに市域を守護するものとしての地位『子爵』の爵位を授けられた。領地も何も持たないただの称号でしかないが、ギャムレットは、れっきとした貴族として、ここへ帰ってきたんだ。あの貴族用の棺桶に入って」

 続く言葉はなかった。

 ゾラの慟哭だけが激しさを増し、黄昏て行く空に響いた。

「嘘だ……そんなの嘘だよ」

 ティムールが頭を振った。

「本当なんだ。ギャムレットは、柩の中に、いる」

 握りしめられたままだった左手から力が抜けて、掌の中でくしゃくしゃになっていたギャムレットの戦死を報せる手紙が、アトナ山の吹き下ろす冷たい風に攫われていく。

「嘘だ……」

 ティムールが、小さく震えるヴァチェスラフの背中を押した。

 それはまるで赤子の背を撫でるかのようにわずかなものだったが、ヴァチェスラフはよろめき、転びそうになりながら、ゾラと同じように、荷馬車の祭壇に捧げられた黒い棺桶に縋りついた。

「嘘に、決まってるよ……こんなの、そうでしょ兄さん」

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