「GT-Rにハチロクエンジン」

志乃原七海

第1話、『買い替えろよ!(笑)』



1980年代の終わり。時代が昭和から平成へと移る狭間で、俺たちは熱に浮かされていた。バイト代を握りしめ、中古車情報誌を穴が開くほど眺めては、週末の夜に峠へと繰り出す。そんな俺の相棒は、トヨタ・スプリンタートレノ。AE86。今から思えば、もう40年も前の鉄の塊だ。


きっかけは、一冊の漫画だった。豆腐屋の息子がハチロクで峠を攻めるその物語は、俺たちの世代の聖書(バイブル)になった。おかげで、それまで二束三文だった中古のハチロクは、あっという間にプレミア価格だ。


「またトレノかよ。眠そうな顔しやがって」


溜まり場のコンビニの駐車場。缶コーヒーを片手に、仲間が俺の愛車をからかう。銀色のボディに、黒い樹脂バンパー。リトラクタブルヘッドライトを閉じたその顔は、確かに締まりがないように見えた。


ブームの中心は、決まって兄弟車のカローラレビンだった。固定式のヘッドライトを持つ精悍なマスク。クルマ雑誌のレースドライバーたちが乗っていたこともあって、ハチロクといえばレビン、というのが当時の共通認識。トレノは、どこか日陰者の扱いだった。


「いいだろ、別に。こっちの方が空力いいんだぜ」


強がってはみるものの、内心は悔しい。それ以上に悔しいのは、この非力なエンジンだった。1.6リッター、NAの4A-Gエンジン。高回転まで回せば甲高いサウンドを奏でるが、友人のシルビアや180SXが吐き出すターボの暴力的な加速の前では、まるで子供扱いだ。


「ケンジ、そろそろカム組むか?4スロもいいぞ」


隣でレビンを磨いていたタカシが言う。あいつの親父は羽振りがいい。メカチューンに憧れるタカシは、少しずつ高価なパーツを組み込んで、俺との差を広げていく。


メカチューン。それは聖域であり、金持ちの道楽だった。ハイカム、ハイコンプピストン、ポート研磨……。NAエンジンの素性を極限まで引き出すその手法は、手間も金も桁違いにかかる。


「一馬力、一万円の世界だからな」


誰かが言った言葉が、頭の中で重く響く。俺のバイト代じゃ、せいぜい5馬力アップがいいところか。


その夜の峠は、散々だった。先行するターボ車にストレートであっという間に引き離され、バックミラーに映る豆粒のようなテールランプを、ただ見送ることしかできない。悔しさに奥歯を噛みしめ、ステアリングを握る手に汗が滲んだ。


「……もう、我慢できねえ」


翌週、俺は決意を固めて、街外れのチューニングショップの門を叩いた。煤けたシャッターとオイルの匂いが染みついた「ガレージ・ヤマモト」。ツナギ姿のオヤジさんが、無愛想に俺を迎えた。


「速くしたいんです。でも、金がない」


単刀直入に切り出すと、オヤジさんはエンジンオイルの染みたウエスで手を拭きながら、フッと鼻で笑った。


「そりゃ、走り屋全員の悩みだな」


俺のトレノを一瞥し、オヤジさんは煙草に火をつけた。紫の煙を吐き出しながら、昔を懐かしむように目を細める。


「手っ取り早くいくなら、過給器だ。ターボか、スーチャーか。30万もあれば、そこそこのキットが組める。50万出せば、見違えるぞ」


その言葉に、俺の心臓が跳ねた。30万。決して安くはないが、バイトを掛け持ちすれば、なんとか捻出できない額じゃない。


「当時はな、一馬力一万円なんて言ったもんだ。50万で50馬力アップだと思えば、安いもんだろ?」


オヤジさんはニヤリと笑う。そして、こう付け加えることも忘れなかった。


「だがな、ハチロクの持ち味は軽さとバランスだ。ドッカンターボなんぞ積んだら、そいつは崩れる。ピーキーで、乗り手を選ぶじゃじゃ馬になる。お前に乗りこなせるか?」


NAならではの素直な吹け上がりを失うことへの躊躇。だが、あのストレートで味わった屈辱が、俺の背中を押した。


「やります。お願いします」


それからの数ヶ月は、地獄だった。昼はガソリンスタンド、夜はコンビニ。仮眠をとってはまたバイトに向かう。ボロボロになりながらも、通帳の数字が増えていくのだけが支えだった。


そして、その日は来た。


ガレージ・ヤマモトに引き取られた俺のトレノは、ボンネットの下に銀色に輝くタービンを収めていた。キーを捻ると、以前とは明らかに違う、荒々しい排気音と「ヒュイィィン」というタービンが回る音が混じり合った。


オヤジさんの「慣らし、しっかりやれよ」という声を背に、俺は慎重にショップを出た。アクセルを少し踏み込むだけで、背中をグイと押される。タコメーターが3000回転を超えたあたりから、景色が歪み始めた。


「これが……俺のハチロクか……?」


慣らしを終え、いつもの峠へ向かう。ストレートでアクセルを床まで踏み抜いた。

瞬間、世界が変わった。

「グォォォォ!」という咆哮と共に、背中を蹴飛ばされるような衝撃。タコメーターの針はレッドゾーンに飛び込まんばかりの勢いで駆け上がり、今まで見たことのない速度でコーナーが迫ってくる。暴力的な加速。これが、過給器の力。


だが、コーナーではオヤジさんの忠告が牙を剥いた。ラフなアクセルワークは、即座にテールスライドを誘発する。何度もスピンしかけ、カウンターを当てる腕が震えた。速くなった。だが、別の生き物になってしまった。


そんな俺の前に、タカシのレビンが現れた。ストレートで俺が前に出る。コーナーでタカシがインを差す。シーソーゲームの末、俺たちはタイヤスモークを上げて路肩にマシンを止めた。


「すげえじゃん、ケンジ。別の車みたいだ」

興奮気味に言うタカシの言葉に、素直に喜べない自分がいた。


「……でも、なんかお前のトレノじゃないみたいだな」


その一言が、胸に突き刺さった。速さは手に入れた。だが、俺は何か大事なものを失ったのではないか。


数日、俺は悩んだ。そして、再びガレージ・ヤマモトを訪れた。


「オヤジさん、こいつ、乗りこなせそうにない」


弱音を吐く俺に、オヤジさんは呆れたように笑った。


「ったりめえだろ。手に入れたパワーを乗りこなすのもチューニングのうちだ。それでだめなら、軽くしろ」


「軽く……?」


「おう。昔っから言うだろ?『10キロ軽量で1馬力』ってな。ま、迷信みてえなもんだが、軽さは全ての武器になる。ブレーキも、コーナリングも、加速もだ」


その言葉に、霧が晴れた気がした。


俺は自分の手で、トレノの内装を剥がし始めた。リアシートを外し、カーペットを剥ぎ、遮音材を削ぎ落とす。鉄板が剥き出しになった車内は、ただの戦闘機のように殺風景になった。


パワーだけじゃない。このじゃじゃ馬を乗りこなすために、俺ができることはまだある。パワーと軽さ。その二つを、俺自身の手でバランスさせていく。それが、俺の選んだ道。俺だけのハチロクの作り方だ。


夜の峠へ向かう。眠そうな顔つきの相棒は、今や牙を剥く獣へと変貌を遂げた。リトラクタブルヘッドライトを上げ、闇を切り裂く。そのアンバランスさこそが、今の俺と、俺のトレノの姿だった。


アスファルトを蹴るタイヤの音、背後で唸るタービンの音。全てが混じり合い、俺だけの交響曲になる。40年前の鉄の塊は、確かにここで、俺と共に生きていた。

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