第9章:「お願い、罪の家には入らないで」

嵐は…外では去ったようだった。


だが、アケミの心の中は、まだ嵐の真っ只中だった。


テーブルの下でのこっそりしたタッチや、無邪気を装った性的なほのめかし、そして母親の「すべてお見通しよ」と言いたげな視線をなんとかやり過ごして──


やっと終わったと思った、その時だった。


「アケミ」

母が立ち上がって言った。

「お願いがあるんだけど」


(また説教か? お仕置き? 家族セラピー? それとも…エクソシズム?)


「どれでもないわ。ただ、ミウを家まで送ってあげて。もう夜だし」


アケミは困惑した顔で母を見た。


「一人で帰れないの?」


「もし変な人に声をかけられたらどうするの?」


「ミウが“変な人”だけど」


「アケミ!」


「……はいはい、分かったよ」


ミウは笑顔で立ち上がった。

まだ乱れたままのワンピース。

計算されたように崩れた髪。

そして、純粋と誘惑が同居したような、あの瞳──。


「ありがとう、アケミくん♡ 本当に紳士だねぇ~」


(紳士っていうなら、自分の部屋に閉じこもって、扉にセメントを流し込むべきだな…)


***


二人は街を歩いていた。

夜風が涼しく、街灯のオレンジ色の光が路面に淡く広がっていた。

二人の足音だけが静かに響く。


「……怒ってる?」

ミウがちらっと横目で聞いた。


「怒ってない」


「……嫌いになった?」


「別に」


「じゃあ…なんで触らせてくれないの?」


「危険察知能力が高いから」


ミウは小さく笑った。


「逃げるアケミくん、かわいいね」


「逃げてるんじゃない。生き延びてるんだ」


やがて、二階建ての家の前に着いた。

窓からは、かすかな灯りが漏れている。


ミウは鍵を取り出した。


「ここだよ。ちょっとだけ…寄ってく?」


アケミは眉を上げた。


「何のために?」


「お水だけでも…それとも、牛乳とか……あるいは、深〜いお話でも、私の部屋で?」


「……なんか危険な響きしかしない」


「家に誰もいないの。両親は夜遅くまで仕事で」


「それ、完全に死亡フラグだろ」


ミウは扉を開けて、甘くてクセになるような笑顔を向けた。


「大丈夫。今日はいい子だったから…無理やりなことはしないよ?」


「それ、ミウが言うと全然安心できないんだけど」


彼女は肩をすくめた。


「じゃあ、ちょっとだけでいいから。何も奪わないよ〜」


そう言って扉に向き直ると、わざと鍵を落とした。


「…あらら」


アケミは同時にしゃがみこんだ。


そしてその瞬間、視線の先には──

柔らかく、解放感あふれる、その谷間。


彼は瞬きをし、ゴクリと喉を鳴らした。

意識が体を離れそうになる。


「拾ってくれる? それとも私が?」


「……ぼ、僕がやるよ」

アケミは目を逸らしながら、爆弾処理班のように鍵を拾った。


ミウは微笑みながら立ち上がった。


「やさし〜い♡」


***


中に入ると、家の中はバニラと洗濯物の香りがした。

奥には階段があり、彼女の部屋へと続いている。


「で、本当にお水が欲しい? それとも…ベッドで語らう深夜の哲学タイム?」


アケミは立ち止まった。


「……『水』って言っとけば早死にしなくて済むな」


「じゃあソファに座ってて、可愛い逃げ腰くん♡」


アケミは素直に座った。


(これは完全に罠だ…!敵地に足を踏み入れてしまった。油断すればやられる。緊張してもバレる。逃げれば追ってくる。……詰んだ)


ミウはキッチンへ。


アケミは静かにソファで待つ。


すると、キッチンから彼女の声が──


「ねぇ〜、冷たいお水なかった〜。でも、ピーチジュースならあるよ〜。それと…暑いなら、私のTシャツ貸そうか〜?」


アケミは玄関の方を見つめ、無の表情になった。


(今度から、おたふく風邪って言い訳を用意しよう…たとえ本当じゃなくても…何でもいい…この状況から逃れるためなら)

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