第6章:「ソファさえも安全じゃない」



リビングの時計は午後5時43分を指していた。

窓からぬるい風が入ってくる。

そしてアケミの体の80%は、ぬいぐるみモードの女子に占拠されていた。


ミウは相変わらず甘い笑顔を浮かべ、アケミの腕から1センチも離れていない。


「アケミくんの家、アケミくんの匂いがするねぇ…」

と、肩に頬をすり寄せながら囁いた。


「それ、脅しにしか聞こえないぞ」

アケミは石像のように固まったまま答えた。


キッチンからはまだ母親のハミングが聞こえる。が、突然——


「ちょっと買い物行ってくるから!お茶は好きに飲んでねー!」


「はーい、お義母さま〜♡」とミウが朗らかに返事する。


アケミはドアの方をゆっくりと振り向く。

まるでスローモーションのようにドアが閉まっていくのを見届ける。


カチッ。


「やばい。俺、今、完全に二人きり。しかも、首に香水つけてる女の子と…。やばい、やばい…」


「ねぇ?」とミウがくるっと向き直って、正座でソファの上に座り直す。

「アケミくんの家、初めて来たんだ〜」


「本来、許可されたわけでもないけどな」


「でも、お母さんが入れてくれたし?つまり、天からの許可ってことでしょ?」


アケミは咳払いする。


「で、ミウ。本当は何が目的だ?」


ミウは小首を傾げる。


「アケミくんと過ごしたいの。そして、反応が見たいの」


「何に対する反応だよ」


にっこり笑ったミウは、ゆっくりとアケミに近づく。


「これに…」


そう言って、彼の膝の上にぽすんと頭を乗せた。


完全に。


アケミの太ももには今、48キロの危険な猫系ぬいぐるみが乗っていた。


「アケミくんの足、すっごく気持ちいい〜」


「それ、俺の膝がゆるいからだぞ」


「緊張してる時の変な返し、大好き〜」


アケミは天井を見つめる。


「これは夢だ。ストレス性の昏睡状態に違いない。ホルモンバランス崩壊AIが作った妄想空間だ…」


「ミウ…降りろ」


「やだ〜、やっぱり照れてる?」


ミウは下から見上げ、アケミの腹のあたりに顔を近づける。


「ちょっとだけ…困らせたいんだ」


「……俺は何の罰を受けてるんだ…?」


ミウは、さらにゆっくり起き上がり、今度はソファの上にまたがるように座る。


アケミの膝に自分の膝が触れる。

肩にかかる髪、かすかな香水の香り。

胸元は見せていないが、見せてるような絶妙なバランス。


「アケミくん…」


「…なに」


「もし今キスしたら…誰にも言わないよ?」


アケミは瞬きをする。


「…は?」


「ひとつだけ。お試しでいいから」


ミウの顔が近づく。


「私が、アケミくんにとっていい選択肢ってこと、わかるかもよ?」


「…それとも危険な選択肢か?」


「両方〜♡」


その瞬間——


ピンポーン♪


インターホンが鳴る。


二人とも固まる。


「誰か来る予定だった?」


「…いや」


アケミは立ち上がり、ドアへ向かう。


「もしこれ、アリサだったら、俺、窓から逃げる…」


ドアを開けた。


するとそこには——


ハルト。完全に固まった顔で立っていた。


「……なにこれ」


アケミが振り返ると、ソファの上のミウが小悪魔スマイルで手を振っている。


「やっほ〜、ハルトくん。参加する?」


「な、な、な、なにィィィ!?」


アケミは目を閉じた。


「俺の平穏はもう存在しない。神様、これはどんな試練ですか…?」


ハルトは交互にミウとアケミを見つめた。


そして静かに胸に手を当てる。


「……そうか。そういうことか…」


「ハルト、違うんだ、これは——」


「言い訳は聞きたくないッ!!物理の先生を手伝うって言ってたくせに…!ソファの上で…!俺らがクッキー食ってたクッションの上で何やってんだよ!!」


「即興だったんだ…」


「これが成長なのか!?仲間を捨てて…フェロモン地獄に堕ちるっていうのか!?キモッ!初めてのくせにイチャつきやがって!」


「ちょ、待——」


「処女卒業頑張れぇぇぇぇッ!!」と叫んで、走り去った。


バタン。


沈黙。


ミウは瞬きした。


「…あれは、祝福?それとも呪い?」


アケミは顔を両手で覆った。


「どっちでもいい…俺はもう限界だ…」


——そして、アケミが2階へ逃げようとしたとき——


ミウが後ろから腕を掴む。


「アケミくん、ちょっとだけ話を…!」


「もうトラップには引っかからない…!」


「あっ、待って、お願いだから——」


引っ張る。振りほどこうとする。

バランス崩壊。


ズルッ。


「うわああああ!!」


ドサッ!


——そして、ラブコメお約束の神が舞い降りた。


アケミ、床に倒れる。


その上に、ミウ、しなやかに着地。


髪は乱れ、顔は赤らみ、息を少しだけ弾ませて。


胸が彼の胸に当たっている。


両膝でアケミの腰を挟んで。


両手は彼の胸元を掴んだまま。


「ア、アケミくん…」


「これは…感情の待ち伏せ…。3つの宗教で禁止されてそうな体勢だ…」


「ご、ごめん…こうなるつもりじゃ…なかったんだけど…」


「じゃあ、どいてくれ」


「やだ」


「……快適か?」


「すごく♡」


「……今この状況、どう思う?」


「…ロマンチックだよ、アケミくん」


アケミは天を仰いだ。


「神様…仏様…どなたでもいいです。今すぐ…隕石でも宇宙人でもいいんで…助けてください…!」

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