第7話:本番直前、高まる期待と秘めた想い
いよいよ文化祭公演の直前。
部室は、これまでで最高の高揚感と、
張り詰めた緊張感に包まれていた。
部員たちはそれぞれの持ち場で最終調整に余念がない。
鏡の前では、役者たちが衣装を身につけ、
互いのメイクを最終チェックし合っている。
舞台袖からは、かすかな緞帳の軋む音が聞こえ、
部員たちの心臓の音と同期しているかのようだった。
小道具が置かれたテーブルからは、
舞台化粧の甘い匂いと、
古びた木材の匂いが混じり合い、
独特の舞台裏の空気を醸し出している。
誰かが小声で発声練習をしており、
その声が、静かに舞台裏に響いていた。
皆の表情には、
これまでの努力の証と、
これから始まる舞台への決意が
刻み込まれているようだった。
舞台裏では、碧が最終セットのチェックを行い、
小道具一つ一つに埃がついていないか、
照明に反射しないかなど、細部まで確認している。
彼女の目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「この木々の葉、ネオの光が透けるように、
もう少し間隔を広げた方がいいかな……」
碧は、自作のセットに最後の微調整を加えている。
彼女の指先は、細やかな作業で汚れているが、
その表情は達成感に満ちていた。
健太は音響機器の最終調整に没頭している。
ヘッドフォンをつけ、
ネオの歌声のテスト音源を繰り返し再生し、
音量、反響、定位の全てを完璧に仕上げていた。
彼の指先は、まるで熟練の職人のように、
繊細な操作を繰り返している。
「よし、これで完璧だ。ネオの声が、
会場のどこにいても、
まるで耳元で囁かれるように届くはず」
健太は満足げに頷いた。
彼もまた、ネオの歌声の可能性に魅せられ、
その「音」を最大限に引き出すことに
全力を注いできたのだ。
彼の隣には、新しいミキサーが設置され、
本番での微調整に備えている。
夢は最終確認のため、
ネオのセリフと歌声をチェックする。
全ては完璧。
ネオの歌声は、
以前にも増して感情の模倣が精緻になり、
まるで心を持ったかのように響く。
その完璧さに、夢は安堵を覚える一方で、
心のどこかに、微かな不安も感じていた。
ネオのシステムログの異常は、
わずかに増え続けている。
昨夜感じた電気の焦げるような匂いも、
耳の奥に残るキーンという耳鳴りも、
夢の背筋にじわりと汗が滲み、
心臓が小さく跳ねる音が、
不穏な影を落としていた。
父のノートの「破滅」という言葉が、
脳裏をよぎる。
「お父さん……これは、本当に大丈夫なの?」
夢は、その不安を心の奥底に押し込めた。
今は、考える時間はない。
舞台への集中こそが、今の全てだった。
夢は深く呼吸を一つ。
自分は演出家であり、この舞台の責任者だ。
どんなことがあっても、
最後までやり遂げなければならない。
彼女の脳裏には、
キャスト不足で打ちひしがれた部員たちの顔が
鮮明に蘇っていた。
「あの時の絶望を、希望に変えるんだ」
夢は、固く拳を握りしめた。
ネオのドールを抱きかかえる。
その瞬間、ネオの瞳が、
一瞬だけ夢の方を向いたように見えた。
それは、光の反射か、
それとも夢の願望か。
誰にも分からなかった。
会場には、たくさんの観客が集まり、
開演を今か今かと待ちわびている。
ロビーからは、
パンフレットをめくる音や、
「今年の演劇部は、AIを使うらしいぞ」
といった囁き声が聞こえてくる。
そのざわめきには、
期待と好奇心がないまぜになっていた。
演劇部の部員たちは、
その熱気を肌で感じていた。
夢は、これまでネオと共に創り上げてきた舞台が、
いよいよ観客の目に触れることに、
胸の高鳴りを抑えきれない。
彼女の顔には、
喜びと、そして演出家としての責任感が
入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。
夢の脳裏には、
キャスト不足で打ちひしがれた部員たちの顔が
蘇っていた。
あの絶望から、ここまで来られた。
全ては、仲間たちの努力と、
そしてネオがいてくれたからだ。
「みんな、準備はいい?」
夢の声に、部員たちは一斉に頷く。
彼らの瞳は、舞台への情熱で輝いていた。
琴音は、緊張で手が震えているが、
その瞳は舞台への強い決意に満ちていた。
「夢ちゃん、私、頑張るから!
ネオの歌声に、私の全てを乗せるから!」
琴音の言葉に、夢は力強く頷いた。
碧と健太も、それぞれが担当する
舞台装置や音響の最終確認を終え、
舞台袖で深く呼吸を整えている。
彼らは、この舞台が自分たちにとっても、
新しい表現の幕開けとなることを確信していた。
「よし、最高の舞台にしようぜ!」
健太が碧の肩を叩く。
碧も小さく頷き、舞台へと視線を送った。
舞台袖では、美月がネオが投影される
半透明幕をじっと見つめていた。
美月の心は、
複雑な感情の嵐の中にいた。
ネオの存在が、
自分の演劇に対する
揺るぎない信念を揺さぶり続けている。
未だにネオの存在が完璧すぎて理解できない部分はある。
しかし、夢や他の部員たちの情熱、
そしてネオが歌う歌声に込められた
「感情」の模倣は、
確かに美月の心を揺さぶり始めていた。
稽古を重ねるごとに、
ネオの演技は、より人間らしく、
より心を打つものになっていった。
美月は、ネオの無垢な歌声が、
自分の心の奥底にある
「完璧な演技とは何か」という問いに、
直接語りかけてくるように感じていた。
それは、恐怖であり、同時に,
抗いがたい魅力でもあった。
美月の脳裏には、
ネオが台本にはないわずかな「間」を置いたり、
美月の言葉に反応してまぶたが震えたように見えたりした、
あの不思議な瞬間が蘇っていた。
「あれは、本当にただの模倣だったのか……?
それとも、私の心が、そう見せただけなのか」
美月は、ネオの存在が、
自分が信じてきた演劇の概念を
根底から覆そうとしていることに、
震えを感じていた。
だが、もう逃げることはできない。
この舞台は、彼女の全てがかかっている。
美月は、舞台袖の冷たい壁に手を置き、
かすかに震える指先を隠すように握りしめた。
呼吸が浅くなり、心臓が早く打っているのがわかる。
美月は、舞台上でネオが歌う主題歌の歌詞を口ずさむ。
「私は、誰かの心に残る“声”になりたい。」
その歌詞は、
まるで美月自身の心の叫びのように響いた。
それは、かつて自分が舞台で感じた、
仲間との絆や情熱を歌い上げたものだった。
だが、その歌声を発しているのは、
感情を持たないはずのAI。
美月の心は、
この矛盾の中で激しく揺れ動いていた。
「もし、本当にネオに心が芽生えているのなら……?
もし、演劇の神様が、私ではなく、
あの機械を選んだのだとしたら……?
私に、この舞台に立つ資格なんてあるのだろうか……」
美月の心に、かつての自分と同じ、
純粋な演劇への情熱が
再び灯されようとしていた。
しかし、その情熱は、
かつてのような無垢なものではなく、
ネオという異物によってもたらされた、
複雑な感情に彩られていた。
美月は、この舞台を通して、
自分の演劇への向き合い方が
変わっていくことを予感していた。
美月の隣にいた琴音は、
美月の顔を見つめ、
その瞳の奥に、
いつもとは違う光が宿っていることに気づいた。
琴音は、美月の心の中で、
何かが大きく動いているのを感じ取った。
「美月先輩……」琴音は心配そうに声をかけた。
「大丈夫?」
美月は何も言わず、
ただ舞台を見つめる瞳を、
さらに強く輝かせた。
その瞳には、舞台への決意と、
そしてネオへの、
言葉にならない問いが込められていた。
琴音は、美月のその横顔から、
今までの美月先輩にはなかった、
新しい「感情」が溢れているように感じた。
それは、きっと、ネオがくれたものだ。
琴音の心にも、期待と、
ほんのわずかな不安が混じり合っていた。
「たとえ本物でなくても──あの声に、
何かを託したくなる自分が、ここにいる。」
美月の心の中で、
確かな決意が芽生え始めていた。
この舞台を、ネオの演技を、
見届ける。
それが、今の美月の、
唯一の選択だった。
舞台の幕が上がる直前、
部員たちは円陣を組んだ。
夢が中央に立ち、
力強く語りかける。
「みんな、今日まで本当によく頑張ったね!
色々なことがあったけど、
私たちは一つになった。
喧嘩もしたし、悩んだこともあったけど、
それでも、ここまで来られた!
ネオも、私たちの大切な仲間だ!
この舞台は、私たち全員の魂がこもった作品だ!
最高の舞台を、最高の仲間と、
最高の観客に届けよう!
悔いのないように、
自分たちの全てを出し切るんだ!」
夢の言葉は、部員たちの胸に深く響く。
部員たちの顔には、
緊張と興奮、そして仲間への信頼が入り混じっていた。
美月は、円陣の端で、
ネオのドールを抱きしめる夢の姿を見ていた。
夢の言葉が、美月の心を揺さぶる。
「魂のない機械と……」
美月の心に、まだわずかな抵抗が残る。
しかし、夢の瞳に宿る
揺るぎない情熱に触れ、
美月の心も、かすかに震えるのを感じた。
美月は、自分の信じる「演劇の神様」が、
今、夢とネオの中に
宿っているような錯覚を覚えていた。
それが、恐怖ではなく、
どこか尊いものだと感じ始めていた。
「私たちは、この舞台を成功させる!」
部員たちの声が一つになり、
部室に響き渡った。
その声は、舞台裏の空気をも震わせる。
部室の壁に貼られた「文化祭公演大成功」の
文字が、まるで彼らを応援しているかのようだ。
舞台監督の神崎先生が、
最終のチェックを終え、
部員たちに声をかけた。
彼の表情は、厳しくも温かい。
「みんな、準備は万端だ。
あとは、自分たちの持てる全てを、
舞台でぶつけるだけだ。
失敗を恐れるな。
舞台に立つことこそが、
最高の喜びだ。
そして、星野……君のお父さんが
残したマニュアルに、
こんな記述があった。
『真の演劇とは、役者と観客の間に、
見えない『魂の共鳴』が起こる瞬間に生まれる』。
今日、それをこの舞台で、
証明してくれ!
君たちなら、できる!」
神崎先生の言葉に、夢は深く頷いた。
父の言葉が、今、夢の胸に深く響く。
それは、単なる教えではなく、
父から娘への、
最後のメッセージのように感じられた。
神崎先生の瞳もまた、
この舞台の成功を強く願っている。
彼もまた、若き日の夢を、
この演劇部の挑戦に重ねていた。
舞台裏の緊張感は、最高潮に達した。
客席からは、開演を告げるブザーの音が響き渡る。
いよいよ、魔法の幕が上がる。
緞帳の向こうから、観客のざわめきが
波のように押し寄せてくるのが聞こえる。
夢の心臓が、高鳴りを増していく。
舞台の幕が、ゆっくりと、しかし確実に、
上がり始める。
スポットライトが舞台中央を照らし、
闇の中に光が差す。
いよいよ、奇跡の瞬間が始まる。
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