Capitulum I サンクトゥス修道学園

Sectio Ⅰ

 まるで世界中が息を止めてしまったみたいに、風がぴたりと止んでいた。

 それがここに来て最初に、未澪の肌に刻みつけられた感覚。


 トラックに揺られながら森の一本道を抜けていく。

 森が途切れ、視界が急にひらけると、その先に空がぽっかりと口を開け——霧に沈むその建物は誰にも見つからないように、じっと黙っていた。


 灰色に色褪せた石壁。空を切り裂くようにそびえる尖塔と、黒く鈍く光る十字架。

 どこか遠い昔、絵本の片隅にだけ存在していたような古めかしい修道院——。

 あまりにも整然と積まれた石造りは、現実離れした静けさを漂わせていた。

 門の上部には白い石板が埋め込まれていた。そこに黒ずんだ金属文字でこう記されている。


『Schola Monasterii dictae ‘Sanctus’』


 未澪には読めない文字だったが、不思議と胸の奥に鈍く響くものがあった。それは祈りとも呪いとも言えない、どこか湿った響きに感じられる。


 トラックが止まっても未澪はすぐに降りることができなかった。

 湿った森の匂いが鼻腔に張りつき、空気は喉に冷たく突き刺さる。

 ドアの外にある世界が現実なのかどうか、自信が持てなかった。

 運転手が無言で軽く会釈し、トラックのアイドリング音だけが静かに耳に響く。


 運転手に促されるまま、未澪はゆっくりと降りた。

 リュックひとつだけを手に、荷物らしい荷物はほとんど持っていない。それでも背中には、しんと積もる雪のような重たさが、消えずに残っている——あの日からずっと。

 たった一月しか経っていない。

 誰の声も届かないこの場所で、これから本当に暮らすのだという実感は、まだどこにも根付いていなかった。


 門が開いた音で我に返る。

「水野未澪さんですね」

 声をかけてきたのは黒衣の修道女。背筋をまっすぐに伸ばし、静かに立つその姿には、厳しさと穏やかさが同居していた。


「ようこそ、サンクトゥス修道学園へ。私はこの学園の修道長、久遠静江くおん しずえです」

 修道長の言葉はその一音一音が儀式の呪文のように、どこか整然と響く。


 未澪は修道長の白銀の髪と鋭い目に、思わず目を逸らした。

 何かを見透かされているような気がしたから。


 ふいに子どもたちの笑い声が聞こえた。

「こんにちは!」「新しい子?」「お名前なんていうの?」

 門の向こうから小さな足音がぱたぱたと近づいてくる、制服を着た子どもたち。

 皆が笑っていた。笑って、未澪に手を振っていた。

 どこか作り物めいた少しばかり過剰な歓迎。誰もが笑顔を向けてくれるのに、その輪の中に自分だけがいつまでも入れない気がした。


「さあ、参りましょう。お祈りの時間までにご案内しなくてはなりませんから」

 修道長の声に促されて未澪はその門をくぐる。

 白い石畳。よく整備された中庭。

 その静けさは、森のざわめきさえも封じ込める結界の内側にいるようで——どこか外の世界から切り離されている気がした。

 まるで時すらも忘れられているように。


 建物の中は驚くほど静かで、自分の足音すら、誰か別の存在のもののように聞こえた。

 廊下には絨毯が敷かれており、壁には聖書の一節が書かれた額縁をいくつも掛けられている。

 祭壇で灯るロウソクの香りが、かすかに鼻をくすぐる。


「ここでは朝、夕、寝る前に必ずお祈りをします。最初は分からなくても大丈夫。周りの子が教えてくれるはずです」

 修道長の声は柔らかい。けれどその言葉には、抗えぬ重さがあった。


「……あの、聞いても……いいですか……」

 未澪が小さく手を上げた。

「お祈りって……誰に?」


 修道長は微笑んだ。けれどその表情は冷たくも見えた。

「イエス・キリストと聖母マリアに、です。日々の感謝を伝えるために」


 一瞬、誰なのか理解できなかった。

 名前は聞いたことがあるけれど、誰なのかはよく知らない。

 訊いてはいけない気がして、「誰?」の声を喉に押し留めた。

 これまでとは違う生活が始まる。

——早く慣れないと……

 そう考えていた。


 未澪にとって、両親がいなくなった現実は絵本の話のようで、どこか他人事だった。

 会えなくなってしまったことは、寂しい。でも、またどこかで会える気がしていた。

 感動的な物語のように。けれど時々、不意に胸の奥が苦しくなる。


 教会の中は静かだった。しかしその威厳を湛えている。

 正面には十字架に貼り付けられたキリスト像が掲げられている。瞳は彫られているだけのはずなのに、魂の奥に冷たい爪を差し込まれるようだった。

 視線を逸らしてもなお、背中に感じる気配。

 祭壇の手前、左手の階段を上がった先、廊下の一角にある部屋の前で修道長は立ち止まった。


「ここが今日からあなたのお部屋です。神谷さんと相部屋になります。とても良い子ですから、すぐに打ち解けられるでしょう。せっかくですから神谷さんに案内をお願いしましょう」


「はい……」


「神谷さんを呼んできますので、荷物をおいて着替えておいてください。制服はあなたのベッドに置いてあります。ではこれから、よろしくお願いしますね」

「あ、はい……よろしくお願いします」

 未澪が会釈すると、扉の向こうからかすかな笑い声が聞こえた。

 それは、なぜかとても楽しそうだった。それでも──どこかに自分だけが外側の空気をまとったまま立っているような、わずかな居心地の悪さが消えない。

 この学園の静けさも、誰かの優しい声も、今はまだ自分のものにはなっていなかった。

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