孤狼

白蛇

Prologus

満月の夜

————あの夜の記憶は常に朧げで、夢と現実の狭間に沈んでいる。

けれども、あの闇の中に——私は紛れもなく、狼男をこの目で見たのだ————


- Prologus -


 母は焼き魚を並べ、父は箸を置いたままニュースに視線を向けていた。

 テレビの音量は絞られ、男性アナウンサーの低い声だけが空気に漂っている。


「卒業、おめでとうな」

 父の呟きは、風化した記憶の灰が宙を舞うように、静かに砕けて消えた。

 その口許に浮かんだ笑みは、崩れゆく石壁の影——今宵にだけ縫い付けられた黒衣のように、薄く、空ろだった。

 刹那、胸の底に氷片が音もなく沈んだ。理由はわからない。ただ、直感だけが囁く——あの笑顔は、決してこちら側にあるものではない——ひび割れた仮面の眼窩が、静かに私を射貫くように。


 母は箸を置くと、小さな包みをそっと差し出した。

「おめでとう。これは……、母さんから」

 紙を解くと、そこには白いレースに包まれた、小さな花のブーケ。

 かすかに甘い香りが立ちのぼり、空気の温度がほんの少し、ほころんだ気がした。

 父が珍しく笑い、冗談めかして私の髪をくしゃりと撫でる。

 ——それだけのことだった。けれど、その瞬間、胸の奥にふわりと灯るものがあった。

 箸が器に触れる音。湯気の立ちのぼる味噌汁。壁にかかる古時計の秒針が、ひとつずつ時間を縫っていく。

 あの夜、あの場所には、確かに家族が息づいていた。


 夜が、静かに降りてきた。


 その日——私が小学校の卒業式を終えた日の夜、風はひそやかにざわめいていた。

 桜の蕾は未だ硬く閉ざされ、月は鋼の刃のごとく夜空を裂いていた。


 両親と三人で囲んだ、それが最後の晩餐。

 記憶に残る父の声も、母の笑顔も、もう輪郭すら曖昧で——すべてがガラス越しに見る幻影のように、指の隙間から滑り落ちていく。


 ——午前二時。


 私はふと、目を覚ました。

 家のどこかで、何かが、ゆっくりと歩いている。


——お父さんでもない。お母さんでもない


 直感がそう告げていた。

 それは濡れた獣の足裏が床板をゆっくりと踏みしめる音。

 一歩ごとに重さを増し、床を軋ませながら近づいてくる。

 樹木を抉るような野獣の血と、土埃の混じる臭気が鼻腔を刺す。


 ベッドの中で私は息をひそめる。

 カーテンは風ひとつないのに、得体の知れぬ手で撫でられるように、無音のまま薄闇を這っている。


——窓が、開いている


 開けた覚えなどない。だが、そこから何かが、すでに這い入ってきていた。


 ギィ……と、床がきしむ。


 喉はひくつき、心臓は耳奥で爆ぜるように脈打つ。

 手足は凍え、意識の中で唯一鮮明なのは、自分の鼓動だけ。


 扉の向こうから漂う、かすかな息遣い——獣の、それ。


 鼻腔から喉へと這い上がる、湿り気を帯びた熱い吐息。その匂いは、錆びた鉄に裂けた肉を混ぜたような、生々しい温度を帯び、風もないのに忍び寄ってくる。

 このまま息をひそめていれば、気付かれずに済むかもしれない。ただ、そう祈る。

 だが、その刹那——。


「許してっ……!」


 それは鼓膜を引き裂くはずの絶叫だった。だが、どこか夢の奥底から響くように、遠く、ぼやけて聞こえた。

 続いて、野太く、低い唸り声。


「お母さん……?」

 唇から漏れたその声を、何かが、確かに聞いた。

 次の瞬間——


廊下を叩き割るような走り音が迫る。濡れた肉が木の床を叩きつける、異様な音。

 それは人間の走り方ではなかった。


 扉が裂ける音と共に、木片が四方へ飛び散る。


 月明かりはかすかな線となって床を舐め、闇の輪郭を縫う。

 顔の形は判然としない。しかしその双眸だけが絶望を絞り出すような深紅の光で——それは憤怒とも、慟哭ともつかぬ色で——。

 私は理解した。


——あれは、人間の目ではない


 月明かりが闇の奥で、何かの輪郭を切り取る——赤い目だけが私を射抜いていた。


 絵本で見た獣の絵が頭をよぎる。

 満月の夜に、人間の姿から毛むくじゃらの怪物に変わっていく姿。

 夜中に目を覚ますたび、いつか自分も襲われるかもしれないと怯えた、あの挿絵。


 そんなもの、もう信じていないはずだった。でも——今、目の前にいるそれは——。

 声が出ない。身体は凍りつき、呼吸すらできない。

 だが不思議と、私には手を出さなかった。

 それは一瞥を投げ、鋭利な牙を剥き、血の唸りと共に、窓の裂け目から闇へと消えた。


 私は震える足を引きずり、扉の残骸を越えて廊下に出た。

 母が、うつ伏せに倒れていた。

 いくら呼びかけても返事はなかった。声も呻きも、もうこの場所には存在しなかった。


 熱く粘る血の匂いが漂い、どこか遠くで水滴が落ちるような音だけが響いている。

 私は、ただその場に立ちすくむ。

 震えながら。泣くことすらできずに。


 月は玄関を無慈悲に照らし、地上の惨劇など露知らず——朧なる光を垂らしながら、すでに背を向けていた。

 そして、朝が訪れる。

 ——もう、誰の声も響かぬ家に。



 ——あれから、私は何度も、同じ夢を見る。

 月が昇ると、あの唸り声が、耳の奥で囁く。


 暗闇に目を凝らすと、その奥に——


月明かりを纏った狼男が立っている。


 深紅の目で見下ろし、熱く湿った息を吐き出している——

その匂いは、夢の中ですら、生々しく鼻を刺す。



 かつて、友人たちは笑いながら言った。

「狼男なんて、絵本の中だけの怪物だろ?」


 ——だが、私は知っている。


 あの夜、満月の下——


狼男は紛れもなく、現実に存在していたのだ、と。

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