第4話
部屋に戻ると、しばらく司馬本家に戻っていた弟の
お帰りなさいと一度立ち上がって兄を出迎えたが、すぐに寝台の側の椅子に座り、そこで眠っている
「……本当だったんですね。女に化けて
司馬孚は頷いてやって来た。兄弟で酌み交わす。
「……
陸議を見ていると、兄が色々な無理難題を彼に出してその力を試したり、自分の片腕のように使っているのが分かる。
だが兄を見ていると陸議に対する、誰に対しても見せない執着や、想いや、情けのようなものを感じるのだ。
……大切にしていることを。
これが、少しでも陸議に伝わっていればいいのだがと彼は思った。
「兄上がその才能を愛される理由が、よく分かります」
「そうか」
「伯言殿は戦働き以外でも、兄上を補佐することが出来る方です。
ですが……それでも兄上が伯言殿を戦場にお連れしたいと思われるのは、それほどあの方が戦場で発揮する才が素晴らしいからなのでしょう」
フッ、と司馬懿が唇の端に笑みを浮かべ、静かにまた一口盃を傾ける。
「……兄上」
「なんだ?」
「兄上。此度の涼州遠征に私も同行させていただいてもよろしいでしょうか?」
「
「はい……腕の未熟は承知していますが、私に出来ることは何でも致します。
司馬本家の父上にも、兄上がもしお許し下さるならば私も涼州に行き、そのお手伝いをするつもりだと申し上げてきました」
穏やかな気性で、無論のこと戦場経験もない。
また、そういう
「どういう風の吹き回しだ?」
面白そうに司馬懿は腕を組み、弟に聞き返す。
「お前は私や他の兄たちと違い、血腥いことは嫌いなはずだ」
「確かに……戦に私の望む、学ぶべきものはないと、私は思って生きてきました。
ですが
学びの本分は、この目で物事を見て、認識し、自分で判断することです。
戦場を知っているだけでも、きっと意味のあることなのです。
私には戦の輝くような才はありません。
ですが私がそこにいるだけで、学ぶべきものはどこにでもあるのです。
私は知識を蓄えることしか能のない人間です。
それなら平穏なところで学びたいなどと言ったりせず、学ぶべきものがあるならばどこへでも行ってみようと思うようになりました。
涼州遠征が、経験ある将兵にも厳しいものであることはよく理解しています。
少しの間ではありますが、司馬家で剣術も習って参りました。
一度見て頂けませんか。
そして最低限の足手まといにはならないと判断していただけた時には、ぜひ涼州遠征に私もお連れ下さい。
伯言様、兄上のお側で使っていただいたり、……他のどこでも、どのような仕事でも構いませんので」
一度立ち上がり、
「――私はな、
司馬懿は盃に、また透き通る酒を注いだ。
「私が陸議を好んでいるのは。
あの者の周囲には、予期せぬ風が流れていることを時折強く感じるからなのだ」
「……風?」
「そうだ。私は物事の大概のことであるならば考え、対策を練り、予期することが出来る。 才ある人間だからな。
幼い頃より、子供のくせに驚いた顔を一つもしない、可愛げの無い奴だとよく兄たちに言われた」
真剣な顔をしていた司馬孚が、少し笑った。
「はい。よく覚えております。しかし弟の私にとっては、そういう兄上が羨ましく思いました」
「しかし陸議の周囲では、時々予期せぬことが起きる。
今回のこともそうだ。
お前自身のこともな。
お前は陸議の身を案じているが、私が陸議を戦場に連れて行くならば、仕方の無いことだと割り切っただろう。
お前の思うとおり、戦場は残虐な連鎖が起こる場所だ。
陸議はそういう場所で生きる定めを持っている。
お前は陸議を迎えることしか出来ん。
お前が、お前自身を、戦と関わりない人間なのだと定める限りはな。
それがお前の限界に自ずとなる」
「兄上……」
「お前は司馬家の人間だ。
そして私の弟だ。この
行くべき道はお前自身で決めていい。
それは誰も拒むことは出来ない。
才ある人間はな。自分で行くべき道も立つべき場所も選べるものなのだ。
司馬懿は寝台の上で深く眠っている陸議の方を見やった。
こうして美しい女衣を身に纏って眠っていると、本当に女のような容貌だ。
やはり
感情という言葉に易々と置き換えることの出来ない、葛藤や、戦う意志、聡明さが全て瞳に現れる。
だから眠りに落ちている時は、心が全く読めず、ただありのままの容姿だけが語りかけてくる。
眠っている陸議をいくら抱いても、目を開き覚醒した翌朝にはその目に宿る魂が、司馬懿を拒んでいるのを強く感じる。
司馬懿を憎んでいるのではなく、
司馬懿に命じられ、ただその駒として戦場に連れて行かれる自分の境遇を憎んでいる。
本来人を率いるべき魂を持った人間だからだ。
司馬懿の望みは、陸議の心と魂を魏と自分の側に惹き付けて、魏の敵に会った時に、魂からその相手に牙を剥くよう、そう望むよう仕向けることだ。
そうなった時――陸議は【
陸伯言は【
本人はそれを認めたがってはいないが、いずれ受け入れる時が来る。
鳳雛は臥龍と並び讃えられた才能だ。
鳳雛の星が落ちたのは、臥龍の星も堕とせるという吉兆だ。
人間が光の中に何を描くかは、人間が決めるのだ。
弱い人間は光の中に己の弱さを嘆く。
強い人間は光の中に己の未来の光を視るものだ。
「……兄上は、
己の未来の光を視る者だと思っておられるのですね」
兄の話を聞きながら、
司馬懿がこの温和な弟を陸遜の側に呼んだのは、司馬家の中で唯一、陸議に忌み嫌われないであろう気質を持っているから、その一点だけだった。
だが司馬孚でさえ陸議の側にいることで、司馬懿の予想外の言動を取り始めている。
陸伯言にはそういう所があった。
そのとき、扉を叩く音がした。
「わたくしが」
司馬孚が一礼し、隣の部屋へと出て行った。
司馬懿は立ち上がり、寝台で眠っている深く
そっと手を伸ばし、頬に指先で触れた。
もう数日で出陣になる。
もうすぐこの瞳が開く。
司馬懿は高揚感を覚えていた。
「兄上」
「なんだ」
振り返らないまま、司馬懿は陸議の額に指で触れながら、返した。
司馬孚がやって来る。
「隣の部屋に、
司馬懿は立ち上がった。
寝台から垂れる薄幕を軽く閉じて、椅子の方へと歩いて行く。
「構わん。入れ」
司馬懿はそこにあった新しい盃に酒を入れた。
徐庶が現れ、司馬懿に一礼する。
「遅い刻限に申し訳ありません」
「兄弟でダラダラと話していただけだ。気にするな。
酒は飲むか?」
司馬懿が盃を掲げてみせる。
「あ……はい。……いえ、明日、早いので遠慮いたします」
「そうか」
無理には司馬懿は勧めなかった。
「なにかあったか?」
「はい。今し方、夕刻に起きた取り調べが終わりましたので直接ご報告に参りました。
少し離れたところにいた司馬孚が思わず振り返る。
「佳珠が狙われた? いつのことだ」
盃を傾けていた手を止める。
徐庶もてっきり話が行ってると思っていたのか一瞬目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「今日の夕刻です。【
「
「い、いいえ! すでにお休みでしたので、まだ何も……」
司馬孚が部屋の奥を見やったので、自然と徐庶もそちらを見ていた。
ここは司馬懿の居住区で私邸になるが、部屋の奥にある寝台の幕の合間から、見覚えのある女衣の解けた帯が見えた。薄い幕の中で女が眠っているのが影のように見える。
「……まあ怪我などした様子はなかった。気にすることはない」
司馬孚がおろおろとしたので、これは弟に向かって言った。
「一応私が居合わせたので、詳細を聞き報告書を預かって参りました」
司馬懿が受け取り、紙を広げた。
「……張家……? はははははは!」
取り調べた男の一人から雇い主の素性が割れたのだという。
「あ、兄上?」
徐庶も少し目を見開いて驚いていた。
「いや、すまん……徐庶殿。多忙な貴方に下らぬ時間を取らせてしまった。
その三人の賊、私に心当たりがあるゆえ、ここから先は私に任せて頂きたい。
「賊をご存知なのですか?」
「知っているというか、身内から出た毒のようなものだな」
「司馬懿殿、三人は武器も所持していました。女相手に三人がかりで武器を持ち、襲おうとしていたのです」
徐庶は司馬懿の様子を見て一応、忠告を与えた。
全く、深刻に受け止めてないように見えたため、当然である。
司馬懿はそれは理解したが、とにかく馬鹿馬鹿しすぎて笑ってしまったのだ。
軽く手を上げ、徐庶の忠告を制する。
「安心せよ。私は身内だからといって生易しい対応をするような人間ではない。
むしろ身内なら容赦なくやる。
愚かな身内は敵よりも悪だからな」
「……では、再びこのようなことがあの方に無いように」
「必ずそうさせる。時間を取らせて申し訳なかった」
「では私はこれで失礼致します。後のことはよろしくお願い致します」
「そこまでお送りいたします」
「いえ。ここで結構です。失礼致します」
ついて来ようとした
扉が閉まりその気配が遠ざかると、司馬孚は寝室に戻った。
「兄上」
「
笑いながら司馬懿は言った。
「張春華殿? 春華殿が何故、
司馬孚はまだ分かっていないようで、首を傾げている。
「あいつは陸議の素性を知らん。
司馬孚は、兄の幼なじみである張春華をよく知っていた。
彼女がいくら兄に自分を嫁にしろと言い寄っても、全く兄が相手をしていないことも。
「しかし……それが何故、伯言さまを狙わせるのです?
あの方は賢い女性ですから、苛立ちや嫉妬に任せて相手を誅殺するような愚かなことをするとはとても……」
「賢いゆえに
自分より強い、優れた者が現れた時に、優れた女はこういう愚かな牙を剥く。
つまり優れた能力を持っていても女の場合、聡明だとは全く限らないということだ。
軽口程度に思っていたが、あいつは本当に女の凡愚であったらしい。
私がいずれ陸佳珠を私の正妻にするつもりだと言ったら、途端にこれだ」
「誠に?」
司馬孚は驚いた。
「実際のところ【
国も、家も、家族も存在しないから、何もかも私の思いのままになる。
司馬家が豪族と結びつけば、一族との付き合いもあろう。
それ即ち、雑事だ。
私はそんなものに付き合う気はない」
「お子などはどうなさるのですか?」
「司馬家は腐るほど兄弟がいる。私は自分の子供には拘りはない。家を栄えさせることにも興味が無い。昔からな。元々側室含め、生まれた子供の中で最も秀でた者を私の後継に選ぼうと思っていたほどだ。
養子でも構わぬとな。
陸議は私をよく理解している。これは元々妻にも女にも望めぬことだ」
司馬懿は楽しげに扇を揺らした。
「そ、そうでしょうが……」
確かに司馬懿は昔から親戚づきあいも、男女の恋愛も、友人関係も希薄だった。
本人がそう望んでいるのだ。
司馬懿は自分自身に重きを置くため、自分が他人に影響を及ぼされることを極端に嫌う。
昔から縁談の話はあったが、全く興味を示さなかった。
司馬懿のそういう他人への冷淡さは、厳格で頑固な父さえ扱いに困り呆れ返るほどで、司馬懿が誰かを自分の妻にしてもいい、などというのを司馬孚も初めて聞いた。
「とにかく……それはともかくとして佳珠殿が普通の女性だとしたら、兄上の側にいる女性を手の者を雇って襲わせるなど、とんでもないことにございます。
張家とは司馬家としても付き合いがあります。
すぐ張春華殿に真偽を問うべきでは」
「そのような無駄な時間を割く暇はない。
やったのはあの女以外にない。よって真偽を問う必要もないことだ。
いいな、
お前も涼州遠征の意志が固まったのなら、それに集中しろ。
余計なことに構うな」
「……分かりました。兄上の命じられる通りに致します」
「それでいい。お前の剣は出立前に一度見てやる。
用意をしておけ」
「ありがとうございます!」
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