第39話図書室のすぐそばで
夕方四時時半。
街の明かりがぽつぽつと瞬き、制服姿の若者が一人、店の扉の前でしばらく立ち止まっていた。
カラン、とドアベルが鳴く。
マスター小鳥遊はサイフォンを温めていた手を止め、やわらかく微笑む。
「いらっしゃいませ。こんな時間に、どうぞ。」
入ってきたのは、高校生らしい男子。
肩には通学用のリュック、手には借りてきた本が二冊。
カウンターに腰を下ろすと、少し頬を赤らめ、視線を泳がせていた。
「……コーヒーは飲めますか?」
マスターがやさしく声をかけると、彼は少し考えてから言った。
「……じゃあ……カフェモカで……。」
「かしこまりました。」
サイフォンの湯が小さく踊り、店内に静かな音が広がる。
やがて、彼は本を膝に置き、ぽつりとつぶやいた。
「……図書室に……好きな人がいるんです。
毎日のように顔を見るけど……話しかけられなくて……。」
マスターは耳を傾け、手を動かし続ける。
「……今日も、借りるつもりのない本を選んで……でも、結局声を掛けられなくて……。
帰り道で……“俺、何やってんだろ”って……
自己嫌悪になります。」
カップに注がれたカフェモカが、ほんのり甘い湯気を立ち上らせる。
マスターはそれを差し出し、穏やかな声で言った。
「――彼女のいる図書室に通うのは、勇気の一歩ですよ。」
男子高校生は目を見開き、首を横に振る。
「……でも……何もできてないんです。」
「いいえ。
好きな人のそばにいるために、あなたはすでに行動しています。
声を掛けられない自分を責めるのではなく、その一歩をちゃんと認めてあげてください。」
彼はカップを両手で包み込み、俯きながらつぶやく。
「……でも、このままじゃ何も変わらないですよね……。」
マスターはやさしく頷く。
「少しずつでいいんです。いきなり“好きです”なんて言わなくてもいい。
“その本、面白いですよね”とか、“おすすめありますか?”……そんな小さな一言からでも、いいんですよ。」
彼の瞳に、かすかな光が灯る。
「……そんな簡単なことでいいんでしょうか……。」
「ええ。
人と人が近づくのは、いつだって小さな言葉からです。
あなたが彼女を想う気持ちが、きっと言葉を運んでくれます。」
彼はカフェモカを一口飲み、ふっと息を吐いた。
苦味と甘さが胸に広がり、肩の力が少し抜ける。
「……ありがとうございます。
……次は……何かひとこと、言ってみます。」
「ええ、その一言が、新しいページを開きますよ。」
彼はリュックを背負い、深く頭を下げた。
カラン、とドアベルが鳴り、夜風が頬を撫でる。
その背中は、来たときよりも少しだけ、背筋が伸びていた。
カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、
窓の外を見やり、静かに呟いた。
「――人を想う心が、言葉を生む。
その一言が、きっと未来を動かす。」
そしてまた、次のお客様を待ちながら、
やさしくミルのハンドルを回し続けた。
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