第38話これからの道

 夜十一時過ぎ。

 街は一日の喧騒を終え、どこかひんやりとした空気が漂っていた。

 カラン、とドアベルが鳴く。

 マスター小鳥遊はサイフォンを温めていた手を止め、柔らかな目を向ける。


「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ。」


 入ってきたのは、五十代ほどの男性。

 上質なコートを着ているが、その表情には長い時間を共にした誰かを想う寂しさがにじんでいる。

 カウンターに腰を下ろすと、深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。


「……コーヒーをください。苦くていいです。」


「かしこまりました。フレンチローストを。」


 サイフォンの湯がぽこぽこと踊る音が、静かな店内に広がる。

 やがて男性は、ぽつりぽつりと話しはじめた。


「……私はついこの前、妻と離婚しました。

 嫌いになったわけじゃないんです。

 長年一緒に暮らして……でも、これからの生き方を考えたとき、

 お互い、別の道を歩いたほうがいいんじゃないかって……。」


 マスターは黙って耳を傾ける。


「……だから、別れました。

 でも、いざ一人になってみると……この先、どう歩けばいいのか、分からなくなってしまって……。」


 カップに注がれた深いコーヒーが、ほろ苦い香りを立ち上らせる。

 マスターはそれを差し出し、穏やかに言葉をかけた。


「――長い時間を共にした相手と別々の道を歩くのは、とても勇気のいる選択でしたね。」


 男性はカップを見つめ、かすかに笑った。

「……勇気なんて大したものじゃありません。

 ただ……これでよかったのか、ずっと考えてしまうんです。」


「それはきっと、あなたが本当に相手を大切に思っていたからでしょう。

 お互いを思った末の選択なら、間違いではありません。」


 男性は深く息をつき、視線を落とした。

「……でも、これからどう生きていけばいいのか……。

 何をしたらいいのか……。」


 マスターはやさしく微笑んだ。

「これからの道は、白紙です。

 何を描いてもいいし、何を選んでもいい。

 長く連れ添った相手と別れると、心にぽっかり穴があきますが……

 そこに、これからのあなたの時間を少しずつ満たしていけばいいのです。」


 男性はカップを一口すすり、目を閉じた。

 その香りと温かさが、胸の奥にゆっくり染みていく。


「……私にも、まだ何か……描けるでしょうか。」


「ええ。

 趣味でも、旅でも、人との新しい出会いでもいい。

 “これからは自分のために生きていい”――そう思える瞬間を、ぜひ見つけてください。」


 男性は少し考え、そして静かに笑った。

「……ありがとうございます。

 ……焦らず、歩ける道を探してみます。」


「ええ。あなたのこれからの道が、どうか穏やかでありますように。」


 男性は深く頭を下げ、コートを羽織って立ち上がった。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜風がそっと店内を撫でる。

 その背中は、ほんの少しだけ軽やかに見えた。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、

 窓の外を見やり、静かに呟いた。


「――別れたあとも、人生は続く。

 その歩みが、どうか新しい喜びを連れてきますように。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し続けた。

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