第35話マスターが耳を傾ける理由

 夜も更けた頃。

 裏通りの灯りは少なく、〈ル・プチ〉の窓からこぼれる光が静かに路面を照らす。

 カラン、とドアベルが鳴いた。

 マスター小鳥遊はカウンターでカップを拭く手を止め、やわらかく微笑んだ。


「いらっしゃいませ。遅い時間にようこそ。」


 入ってきたのは、常連の若い男性だった。

 カウンターに腰を下ろすと、コートを脱ぎ、ふと店内を見回してから問いかける。


「……マスター、ひとつ聞いていいですか?」


「ええ。コーヒーを入れながらでよろしければ。」


「いつものカフェラテで……。

 ……あの、前から気になってたんですけど……。」


 サイフォンの湯がゆらゆらと揺れ、静かな音を立てる。

 男性は少し言いづらそうに目を伏せた。


「……どうしてマスター、相談を聞くようになったんですか?

 前に誰かから聞いたんですけど……昔は、普通の喫茶店だったって。」


 マスターは手を止めず、少し遠くを見るような目をした。


「――ええ、昔はただの喫茶店でした。

 黙って美味しいコーヒーを出すだけの……ごく普通の店でしたよ。」


 男性はカップを受け取りながら、身を乗り出す。

「でも、どうして変わったんですか?」


 マスターはゆっくりとカップを磨く手を止め、ほんの少し目を伏せた。


「……あるとき、常連だったお客様がね、毎晩のように来ては、何かを言いかけて……結局、何も話さずに帰っていかれたんです。

 ある夜、いつものようにコーヒーをお出ししたあと、その方は……もう二度と、店に来ませんでした。」


 男性は息をのむ。

 マスターは続けた。


「後から人づてに聞きました。

 あの方は、深い悩みを抱えていたと。

 ……あのとき、もし私が、ただ一言でも『どうしましたか?』と聞けていたら……と、今でも思います。」


 カウンターに静寂が落ちる。

 マスターは苦笑を浮かべ、カップを置いた。


「それからです。

 お客様が少しでも話したそうな顔をしているときは、耳を傾けようと決めました。

 私にできるのは、美味しいコーヒーを出すことと、ほんの少しの言葉を添えることだけですけど……。」


 男性はカフェラテを一口飲み、目を伏せたまま小さくつぶやいた。


「……マスターのコーヒー、なんか落ち着く理由、わかった気がします。」


 マスターは穏やかに微笑む。

「――それなら、嬉しいですね。」


 カラン、とドアベルが鳴り、夜風がやさしく流れ込む。

 店内には深い静けさと、ほのかなコーヒーの香りだけが残った。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは窓の外を見やり、静かに呟く。


「――聞けなかった言葉があるからこそ、今こうして耳を傾けているのかもしれません。」


 そしてまた、次のお客様を待ちながら、

 やさしくミルのハンドルを回し続けた。

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