第34話絵本を描きたい夜
深夜0時近く。
路地はひっそりと静まり、〈ル・プチ〉の窓から漏れる光が、まるで道しるべのように滲んでいた。
カラン、とドアベルが鳴く。
マスター小鳥遊はサイフォンを温めていた手を止め、やわらかい目で来客を迎えた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ。」
入ってきたのは、三十代前後の女性。
肩から提げた大きな布バッグには、色とりどりのペンやノートが詰まっている。
カウンターに腰を下ろすと、少し迷ったあと、小さな声で言った。
「……ここって、相談を聞いてくれるんですよね。」
「ええ、もちろん。コーヒーはいかがなさいますか?」
「……ミルク多めで……お願いします。」
「かしこまりました。」
サイフォンの湯がぽこぽこと音を立てる。
彼女はカウンターに置いたノートを開き、そこに描かれた拙い動物のスケッチを見つめながら、ぽつりと話しはじめた。
「……私、昔から絵を描くのが好きで……最近、絵本を作りたいと思うようになったんです。
でも……仕事もあって、家事もあって……時間もなくて……。
“やってみたい”って気持ちだけで、結局、途中で止まってばかりで……。」
マスターは耳を傾けながら、丁寧にミルクを落とす。
「……こんな中途半端なままじゃ、誰にも見せられない。
でも、描きたい気持ちだけは残ってて……。
……こんな私が、絵本なんて……作っていいんでしょうか。」
カップに注がれたやさしいカフェラテが、ほのかに甘い香りを立ちのぼらせる。
マスターはそれを差し出し、ゆっくりと言葉を選んだ。
「――“作っていいか”ではなく、
“作りたいか”で考えてみてはいかがでしょう。」
彼女はカップを見つめ、瞳を瞬かせる。
「……作りたい……です。」
「なら、すぐに大きな完成を目指さなくても構いません。
一枚でも、一行でも。
あなたの時間で、少しずつ積み重ねていけばいいんです。」
女性の目に、かすかな光が宿った。
「……少しずつ……でも、いいんですね。」
「ええ。
あなたが描きたい気持ちは、誰かの心に届く種になります。
その種は、ゆっくりでも必ず芽吹きますよ。」
彼女はカフェラテをひと口すすり、温かさに頬を緩めた。
「……ありがとうございます。
帰ったら……また一枚、描いてみます。」
マスターは微笑んでうなずいた。
「ええ。あなたの絵本を待っている人は、きっとどこかにいます。」
カラン、とドアベルが鳴り、夜風が店内をやさしく撫でる。
ノートを抱えた女性の背中が、街灯の下で少し頼もしく見えた。
カウンターの奥で、小鳥遊マスターはカップを拭きながら、
湯気の向こうを見やり、静かに呟いた。
「――ゆっくりでもいい。
あなたの想いは、必ず形になる。」
そしてまた、次のお客様を待ちながら、
やさしくミルのハンドルを回し続けた。
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