第20話導くはずの道で迷う
夜九時。
雨粒が静かに窓を打ち、店内にはサイフォンの炎がゆらめいている。
カラン、とドアベルが鳴いた。
マスター小鳥遊は顔を上げ、やさしい笑みで迎えた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、カウンターへ。」
入ってきたのは、三十代後半ほどの女性。
肩から提げたバッグには、色あせた職員証がのぞいている。
コートを脱ぎ、深いため息をつきながらカウンターに腰を下ろした。
「……ここ、相談できるんですよね。」
「ええ、もちろん。お好きなコーヒーを。」
「……少し優しいのを……カフェラテでお願いします。」
サイフォンの湯が小さく踊り始める。
女性は指先を組み、視線を落としたまま話し始めた。
「……私、高校の教師なんです。進路指導も担当してて……。
生徒たちの進路相談、毎年やってるんですけど……最近、わからなくなるんです。」
マスターは手を止めず、ゆっくりと耳を傾ける。
「……あの子のためには大学に行ったほうがいいのか、就職したほうがいいのか……。
親御さんの意見もあるし、学校の実績だってある。
でも何より、その子の人生を思うと、私は何を言うべきなのか……。
生徒のことを真剣に考えれば考えるほど……わからなくなってしまうんです。」
カップに注がれたやわらかなカフェラテから、ほのかに甘い湯気が立ち上る。
マスターはそれを差し出し、やさしい声で語りかけた。
「――生徒を真剣に思うからこそ、迷われるのですね。」
女性はカップを握り、目を伏せたまま小さくうなずく。
「……ええ。私の一言で、あの子の未来が変わるかもしれないって思うと……怖いんです。」
「ですが、あなたはその迷いの中で、生徒を見つめている。
それこそが、もう十分な“指導”なのだと思います。」
女性は顔を上げ、少し驚いたような目をした。
「……迷うこと自体が……?」
「はい。もしあなたが、何も考えずに“こっちにしなさい”と簡単に決めてしまったら……
生徒はきっと、その言葉の奥にある愛情を感じられないでしょう。
でも、あなたは悩み、考え、寄り添おうとしている。
それは生徒にとって、何よりの支えになります。」
女性はしばらく黙り、カフェラテを一口飲んだ。
やわらかな苦味が胸を温める。
「……私、答えを決めてあげるんじゃなくて……
その子が自分で選べるように、支えればいいのかもしれませんね。」
マスターはゆっくりと頷いた。
「ええ。進路指導とは、道を決めることではなく、
その子が自分で歩き出す勇気を渡すことかもしれません。」
女性はふっと笑い、目元をぬぐった。
「……ありがとうございます。もう少し、生徒たちと向き合えそうです。」
カラン、とドアベルが鳴る。
夜の雨に傘を広げる彼女の背中を、マスターは静かに見送った。
カウンターの奥で、カップを拭きながらそっと呟く。
「――誰かを導く人ほど、自分もまた迷う。
その迷いこそが、やさしい道しるべになるのでしょう。」
そしてまた、次のお客様を待つように、
ゆっくりとミルのハンドルを回し始めた。
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