第14話夢の途中で

 深夜0時。

 街灯に照らされた道は人影もまばらで、〈ル・プチ〉の窓だけがほのかに温かい光を放っている。

 カラン、とドアベルが鳴り、マスター小鳥遊は顔を上げた。


「いらっしゃいませ。こんな時間までお疲れさまです。」


 入ってきたのは、まだ二十代半ばほどの男性。

 大きめのリュックを背負い、手にはスケッチブック。

 服の袖に絵の具の跡が残っている。


 カウンターに座ると、彼はスケッチブックを抱きしめるようにしながら、かすかに笑った。


「……ここ、相談できるって……聞いて。」


「ええ、どうぞ。コーヒーは何を?」


「……苦くないやつがいいです。夜だから、軽めの。」


「では、キリマンジャロを浅めに淹れましょう。」


 サイフォンの湯が小さく踊り始め、マスターは静かに耳を傾ける。

 彼はスケッチブックの角をなぞりながら、ぽつりと話し始めた。


「……僕、イラストレーターを目指してるんです。

 昼は普通の仕事をして、夜に絵を描いて……でも、全然食べていけない。

 周りの友達はもう結婚したり昇進したり……。

 “いつまで夢追ってるの?”って、最近よく言われて……。」


 マスターは黙って豆を挽き続ける。


「……僕はまだ……やれる気がするんです。

 でも、このままでいいのかって、時々怖くなる。

 もう何年も、“夢の途中”で立ち止まってる気がして。」


 カップに注がれた薄めのキリマンジャロから、やさしい香りが立ち上る。

 マスターはそれを差し出し、ゆっくりと言葉を選んだ。


「――夢の途中、ですか。

 なら、途中で止まっているのではなく、きっとあなたはまだ道の上にいるのでしょう。」


 男性はカップを見つめ、眉を寄せたまま聞き返す。


「……道の上……?」


「ええ。夢を追うとき、人はよく“結果”を探します。

 でも、結果が見えなくても、歩き続けているなら、ちゃんと進んでいる。

 ……あなたが絵を描き続けている限り、夢はまだ息をしていますよ。」


 男性の瞳に、少し光が戻った。


「……でも……周りに何か言われると……」


「周りの時間と、あなたの時間は、別の時計で動いています。

 比べる必要はありません。

 あなたが“やれる気がする”と思っている限り、その時計は進み続けます。」


 男性はゆっくりとコーヒーを飲み、ほっとしたように肩を落とした。


「……ありがとうございます。

 なんか……もう少し歩けそうな気がしてきました。」


「ええ。足を止めない限り、道は続きますから。」


 彼はスケッチブックを大事そうに抱え、立ち上がった。

 カラン、とドアベルが鳴り、夜の空気がひやりと頬を撫でる。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターは新しい豆をミルに入れながら、

 湯気の向こうで静かに微笑む。


「――夢を描く人の足音は、静かでも確かに響いているものです。」


 そしてまた、次のお客様を待つように、

 ゆっくりとミルのハンドルを回し始めた。

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