第10話親心子知らず
夕方。
西日が店先を黄金色に染める頃、カラン、とドアベルが鳴った。
小鳥遊マスターは、カウンターでスプーンを磨いていた手を止め、柔らかな声をかける。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ。」
入ってきたのは、まだあどけなさの残る若い女性。
カジュアルな服にリュックを背負い、しかし眉間には小さなしわ。
カウンターに座ると、スマホを握りしめたまま、ため息をこぼした。
「……あの、ここって……相談、聞いてもらえるって……」
「ええ、もちろん。コーヒーは何にしましょうか。」
「……カフェモカ、お願いします。」
サイフォンの湯がゆるやかに湧き、マスターは静かに豆を挽く。
女性はスマホをテーブルに置き、眉を寄せたまま話し始めた。
「……さっき、母と電話で大げんかしたんです。
“あんたは親の気持ちがぜんぜんわかってない”って。
……うるさいなって思って、つい強く言い返しちゃいました。」
マスターは手を止めず、ただ耳を傾ける。
「……私だって、自分なりに頑張ってるんです。
仕事もしてるし、家賃も払ってるし……。
でも、母は“夜遅くまで働いて大丈夫?”とか“あの人とは会ってるの?”とか、
いちいち干渉してくるんです。
……もういい大人なのに。」
カップに注がれたカフェモカの香りが広がる。
マスターはそれをそっと差し出し、やわらかく口を開いた。
「――親というのは、不思議な生きものです。
どれだけ子が大きくなっても、まだ心のどこかで“守ってあげなければ”と思ってしまう。」
女性は眉を緩め、カップを手に取る。
「……でも、私、もう守られる年じゃないし……」
「ええ。あなたはもう、自分の足で立っています。
でもね、親にとってあなたは、いつまでも“昨日まで手をつないでいた子ども”なんですよ。
だから、時にそれが鬱陶しく感じるかもしれない。
けれど、その言葉の裏には――ただ、あなたを想う気持ちしかない。」
女性の目尻に、少し涙がにじむ。
「……私、母の気持ちを全然わかろうとしてなかったかもしれない。」
「きっとお母さまも、あなたが頑張っているのをわかっています。
だからこそ、心配するのです。
……もしよければ、一言だけでも伝えてあげてください。
“私は元気だから、安心して”と。」
女性はカフェモカを飲み干し、しばし黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……帰ったら、電話してみます。
ありがとうって……言ってみます。」
席を立ち、リュックを背負う。
カラン、とドアベルが鳴り、夕暮れの街へ彼女は歩き出した。
カウンターの奥で、小鳥遊マスターはゆっくりとコーヒー豆を手に取り、
窓の外を見つめながら静かにつぶやく。
「――親心を知るのは、きっと自分が親になったとき……
それでも、今からでも伝えられる言葉はあるはずですね。」
そしてまた、次のお客様を待つように、
ミルのハンドルをやさしく回し始めた。
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