第9話物語の行き先

 夜七時。

 小雨が路地を濡らし、街灯の明かりが滲んでいる。

 カラン、とドアベルが鳴り、マスター小鳥遊は顔を上げた。


「いらっしゃいませ。冷えますね……どうぞ。」


 入ってきたのは、ノートパソコンを入れたリュックを背負った青年。

 ジャケットの袖口が少し擦れている。

 カウンターに腰を下ろすと、メニューも見ずにため息をついた。


「……マスター、相談……いいですか。」


「ええ。コーヒーはどうされます?」


「……深煎りの……お願いします。」


 サイフォンの湯がぽこぽこと音を立てる。

 青年は自分の指先を見つめ、ぽつりと話し始めた。


「……僕、web小説を書いてるんです。

 毎晩、仕事終わりに書いて……週に一度は更新してるんですけど……。

 全然、読まれないんですよ。

 ランキングも下の方で……コメントも来なくて……。」


 マスターは静かに豆を挽く音を響かせながら、耳を傾ける。


「読者が何を求めているのか、わからないんです。

 でも……僕は自分が面白いと思ったものを書いてて。

 ……それを、もっとみんなに知ってほしいんです。」


 湯気が立ち上がり、カップに琥珀色のコーヒーが満ちる。

 マスターはそれを差し出し、柔らかい笑みを浮かべた。


「――あなたの物語は、きっと、まだ旅の途中なのですね。」


「……旅の、途中……」


「世の中に“求められるもの”は、たしかにあります。

 でもね、誰もが最初からそれを的確に掴めるわけではありません。

 だからこそ、あなたが『これを届けたい』と信じる物語を、

 まずは丁寧に書き続けてあげてください。」


 青年はカップを両手で包み、じっと耳を傾ける。


「誰かが求めるものを追いかけすぎると、

 自分の声が薄まってしまうこともあります。

 でも、あなたの声だからこそ響く読者は、必ずいる。

 ――その読者に出会うまで、書き続けることが、いちばん大切なんですよ。」


 青年は、ほっとしたように笑った。

 カップから立つ湯気が、かすかな希望のように見えた。


「……なんだか、救われました。

 ありがとうございます……もっと書いてみます。

 きっと、いつか届くって、信じて。」


「ええ。届く日を、きっとあなた自身が連れてきますよ。」


 青年はリュックを背負い直し、席を立った。

 ドアベルがやさしく鳴り、夜の路地へ彼の背中が消える。


 カウンターの奥で、小鳥遊マスターはコーヒー豆をそっと手に取り、

 ぽつりと呟いた。


「――物語を紡ぐ人の歩みは、きっと誰かの心に届く風となる。」


 そしてまた、次のお客様を待つように、

 ゆっくりとミルを回し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る