第4話なぜ、そこにいた? なぜ、助けた?
警察署は、想像していたよりもずっと、無機質で冷たい場所だった。場違いなほどに静かで、おれの心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いているように感じた。
事情聴取室らしき個室に通され、向かいに座った年配の警察官に、これまた事務的な口調で話しかけられた。
「それで、君はなぜ、あの場所、あの時間に、あの女性を助けるためにそこにいたんだね」
質問の意図が、おれの痛む両腕の激痛よりもさらに鈍く、理解を拒んだ。
なぜ、そこにいた?
なぜ、助けた?
この質問、彼女に聞くべきことじゃねえか?
いや、そもそも、なぜ彼女がビルから落ちてきたのか、という原因究明が最優先なんじゃねえのか?
「いや、あの!それは…」
おれは、言葉を探す。
「ええと、その…」
どう説明すればいい?
「たまたま、そこにいただけです」
「いや、たまたまにしては、タイミングが良すぎませんか?」
「そうです、タイミングが良かったんです。だから、助けました」
「…そうですか。なるほど。で、そのタイミングが良かったという『偶然』について、もう少し詳しく聞かせてもらおうか」
…話が噛み合わない。
この人は、おれが「犯人」か、あるいは「事件に深く関与した目撃者」であることを前提に話しているのだろうか。
「いや、そうじゃなくて!あの、彼女が落ちてきたから、俺は、その…」
おれは、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。無関心で、ただ時間を潰していただけなのに、いきなり「ヒーロー」という大役を押し付けられ、今度は「なぜここにいたのか」という謎の問いに答えなければならない。
「彼女に話を聞くのが、先じゃないですか?」
おれは、反論するように言った。
「なんで、俺に…」
警察官は、おれの言葉を遮るように、指でテーブルを軽く叩いた。
「君が彼女を助けたのは事実だ。それは評価すべきことだろう。だが、君の行動は、あまりにも常識外れだ。ビルから落ちてくる人間を、無防備に抱きとめるなんて、普通はありえない。ましてや、君自身も大怪我を負っている。その『なぜ』を、我々も知る必要がある」
大怪我?
おれの、この鉄棒がねじ込まれたような両腕の激痛が、やっと彼らの「常識」に引っかかったらしい。だが、その理由が「なぜここにいたのか」に繋がるのが、やはり納得いかない。
「いや、でも、それは、彼女が落ちてきたから…」
「そう。彼女が落ちてきた。そして君がそれを助けた。その『偶然』の連鎖を、我々は解明しなければならないんだ。彼女がなぜ落ちてきたのか。そして、君がなぜ、あのタイミングで、あの場所に、あの女性を助けるための『準備』ができていたのか」
準備?
「俺は何も準備なんて…」
「そうか?君は、落下する女性を『お姫様抱っこ』という、極めて絵になる形で受け止めた。それは、ある種の『覚悟』や『訓練』があったからではないのか?たとえば、武道か何かで…」
武道?
おれは、せいぜい会社の福利厚生で参加した、一度きりの合気道の体験教室で、畳に顔を擦り付けた記憶しかない。
「いや、違います!彼女に聞くべきです!彼女が、なぜ…」
「彼女にも、もちろん聞く。だが、君の証言も、我々にとっては重要な手がかりなんだ」
警察官は、そう言いながら、おれの顔をじっと見つめた。その目は、何かを探るような、疑いの色を帯びていた。
まるで、おれがこの一連の出来事の黒幕であるかのように。
あるいは、この「偶然」の裏に、何か別の意図があるのではないかと、そう勘ぐっているかのように。
「…はあ」
もう、何を言っても無駄な気がした。
どうやら、おれは「助けた英雄」から「怪しい目撃者」へと、立場を急激に降格されたらしい。
そして、この両腕の激痛は、さらなる苦難の始まりを告げているようだった。
「で、その…怪我のほうは、どうなりますか?病院には…」
おれは、もう一度、かすかな希望を込めて尋ねた。
警察官は、また手帳に何かを書き込みながら、顔を上げた。
「ああ、君の怪我ね。とりあえず、診断書を出してもらって、事故証明書と一緒に提出すれば、治療費も…まあ、状況によっては、ね」
状況によっては?
その「状況によっては」という言葉が、この後の展開を予感させて、おれの胸をさらに重くした。
助けたのに、なぜだ?
なんで、俺ばっかりこんな目に遭うんだ?
(笑)も、もう出てこない。
ただ、静かに、両腕の痛みに耐えるしかなかった。
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