第3話『署までご同行を!』
新宿の喧騒が、遠い世界の出来事のように聞こえる。おれは、垂れ下がった両腕の激痛に耐えながら、目の前の警察官を見上げていた。
「えーと、君。少し話を聞きたいから、署までご同行願えるかな」
は?
今、なんて言った?
聞き間違いかと思って、おれは瞬きを繰り返した。
「しょ…ですか?」
「ああ、そうだ。状況を詳しく聞かせてもらいたいんでね」
警察官は、手帳をパタンと閉じながら、事務的な口調で言った。
いやいやいや、待て待て待て。
おれの視線は、自分の両腕と警察官の顔を交互に行き来する。だらりと垂れ下がり、意思とは無関係にぷるぷる震えるこの腕が、見えていないのだろうか。さっきから妙に紫がかっているし、熱を持ってズキズキと脈打っている。感覚としては、完全に使い物にならない。むしろマイナス。存在自体が苦痛。
「あの…その前に、病院とか、救急車とか…」
「ん?ああ、君は大丈夫そうだから」
警察官は、おれの全身を値踏みするように一瞥し、こともなげに言った。
「見たところ、立って歩けるんだろ?それに、救急車は彼女が優先だ。わかるな?」
わかるな?
わかるわけねえだろ。
おれの頭の中で、理性のヒューズが音を立てて飛んだ。
なんで?
おれは命の恩人じゃなかったのか?身を挺して女性を救った、市民の鑑じゃなかったのか?テレビのニュースで「勇敢な男性は…」とか紹介される側の人間じゃなかったのか?
助けたのに?(笑)
なんで事情聴取?おれ、なんか悪いことした?
重力に逆らって、物理法則をちょっと無視して、ビルから落下してきた女性をキャッチしただけだぞ?
なんならニュートンもびっくりだぞ?
その間にも、担架に乗せられた彼女は、大勢の隊員や警官に囲まれ、丁重に救急車へと運ばれていく。野次馬たちは「よかったわねぇ」「お大事に」と、まるで聖女を見送るかのように声をかけている。
誰も、おれを見ない。
おれの、見るからにイカれてしまっている両腕を、誰も気にかけない。
「ほら、行くぞ」
警察官に背中を軽く押される。そのわずかな衝撃でさえ、両腕に地獄のような痛みが走った。
「いっ…つぅ…!」
思わず呻き声を上げると、警察官は怪訝な顔でおれを見た。
「なんだ、大げさだな。さっきは平気な顔で抱きかかえてたじゃないか」
平気なわけあるか。
アドレナリンと理不尽への怒りで、痛覚がバグってただけだ。
おれは、完全に機能を停止した両腕をぶらぶらさせながら、新宿の雑踏を横切って警察署へと歩き始めた。まるで、操り糸が切れたまま引きずられていく、壊れた人形のように。
「はは…」
乾いた笑いが漏れる。
これが、ヒーローの末路か。
感謝状どころか、待っていたのは事情聴取。報酬は、この激痛と、おそらく一生分の笑い話。
(笑)じゃねえよ、マジで。
医者を呼べ、医者を。
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