第7話「課長の青春と胃薬の歴史」

 恋人召喚魔法施行から一週間。私は課長の机の前で、呆然と立ち尽くしていた。


 課長の前に現れた女性は、三十代後半くらいだろうか。上品で知的な雰囲気を持った、とても美しい人だった。


 そして今、その女性が課長に向かって言ったのだ。


「健一さん、久しぶりね」


 課長の本名は鷹山健一たかやまけんいち。でも、この女性が課長の名前を知っているということは...


「ま、まさか...美咲?」


 課長の声が震えていた。いつも冷静な課長が、こんなに動揺している姿を見るのは初めてだった。


「そう、田村美咲よ。覚えててくれたのね」


 美咲さんは微笑んだ。課長は胃薬のボトルを握りしめているが、今日は口にしていない。


「あの、課長...」


 私は恐る恐る声をかけた。


「お知り合いの方ですか?」


 課長は私を見て、それから美咲さんを見た。


「大学時代の...同級生だ」


「同級生」


 美咲さんが少し寂しそうに笑った。


「随分と遠回しな言い方ね」


 その時、文鳥山ぶんちょうやま先輩がいつものお菓子を食べながら現れた。


「課長、お疲れさま...あら?」


 文鳥山先輩は美咲さんを見て、目を輝かせた。


「素敵な方ね。課長の召喚恋人?」


「あ、えーと...」


 課長は困っている。


「申し遅れました。田村美咲と申します」


 美咲さんが丁寧に挨拶した。


「こちらこそ、文鳥山です。課長がいつもお世話になっております」


 私は状況を整理しようとした。課長に昔の知り合いが恋人として召喚された?


「あの、美咲さん」


 私は尋ねた。


「急にここに現れて、驚かれませんでしたか?」


「ええ、とても。仕事中だったんですけど、気がついたらここに」


 美咲さんは周りを見回した。


「でも、健一さんに会えて嬉しいです」


 課長の顔が赤くなった。こんな課長を見るのも初めてだった。


「美咲、君は今...」


「独身よ」


 美咲さんはあっさりと答えた。


「あなたは?」


「僕も...独身だ」


 なぜか、オフィスの空気が甘くなったような気がした。


 その時、のぞみさんが慌てて駆け込んできた。


「課長!記者から質問です!『魔法省課長の恋人召喚について』って...あら?」


 のぞみさんは美咲さんを見て、固まった。


「もしかして...」


「そうです」


 私は小声で説明した。


「課長の召喚恋人の方です」


 のぞみさんの顔が青くなった。


「記者会見、どうしましょう...」


「記者会見?」


 美咲さんが尋ねた。


「はい。恋人召喚魔法について、毎日説明をしているんです」


「それで、私のことも?」


 美咲さんは課長を見た。


「健一さんが困るようなことはしたくないんですが」


 課長は考え込んでいた。


「美咲...」


「健一さん」


 美咲さんは課長の手を取った。


「私、ずっと後悔してたの」


「後悔?」


「大学を卒業する時、私たち別れたでしょう?」


 課長は頷いた。


「君は教師になって、僕は公務員になるって決めた時だね」


「そう。お互いの夢を応援するために、別れるのが一番だって思った」


 私は二人の会話を聞いていて、胸が痛くなった。きっと、とても大切な人だったのだろう。


「でも」


 美咲さんは続けた。


「あの時、本当は言いたかったの。『一緒にいたい』って」


 課長の目が潤んでいた。


「僕も...同じことを思ってた」


 その時、文鳥山先輩がそっと私の袖を引いた。


「つばささん、ちょっと」


 私たちは少し離れた場所に移動した。


「どうしたんですか?」


「課長の恋人、ただの昔の知り合いじゃないわね」


「そうですね。大学時代の恋人だったのでは?」


「それも、相当深い関係だったみたい」


 文鳥山先輩はせんべいをかじりながら言った。


「課長、あんなに動揺してるの見たことない」


 私は課長たちを見た。二人は静かに話し続けている。


「でも、魔法で呼び出されたんですよね?」


「そうよ。でも、偶然にしては出来すぎてる」


 文鳥山先輩の言葉に、私は考えた。


 魔法は「理想の恋人」を召喚する。課長にとって理想の恋人が、昔の恋人だったということは...


「課長、ずっと美咲さんのことを忘れられなかったのかもしれませんね」


「きっとそうよ。だから魔法が美咲さんを呼んだ」


 その時、のぞみさんが慌てて戻ってきた。


「皆さん、記者が来ます!」


「記者?」


「はい。『魔法省課長の恋人について取材したい』って」


 課長と美咲さんが振り返った。


「健一さん、私、取材を受けましょうか?」


「でも、君に迷惑をかけるかもしれない」


「大丈夫。私、今は大学で心理学を教えてるの。恋人召喚魔法の心理的影響について、専門的な意見も言えるわ」


 私は驚いた。美咲さんは大学教員だったのだ。


「それなら...」


 課長は決心したようだった。


「一緒に会見に出よう」


 三十分後、私たちは記者会見場にいた。


 課長と美咲さんが並んで座っている。二人の間には、不思議な安らぎの空気が流れていた。


「それでは、質問をお受けします」


 のぞみさんが司会を始めた。


「鷹山課長にお聞きします。恋人として召喚された方との関係は?」


 課長は美咲さんを見てから答えた。


「大学時代の...大切な人です」


 記者たちがざわめいた。


「田村さんにお聞きします。突然召喚されて、どのようなお気持ちでしたか?」


 美咲さんは穏やかに答えた。


「驚きましたが、健一さんに会えて嬉しかったです」


「恋人召喚魔法について、心理学の専門家としてはいかがですか?」


「興味深い現象です」


 美咲さんは専門家らしい口調になった。


「魔法は『理想の恋人』を召喚しますが、それは必ずしも架空の人物ではない。過去の恋人や、潜在的に想いを寄せている実在の人物が現れるケースが多いようです」


 記者たちが熱心にメモを取っている。


「つまり、魔法は人の潜在意識を反映しているということでしょうか?」


「そう考えられます。課長の場合も...」


 美咲さんは課長を見た。


「きっと、私のことを忘れずにいてくれたのでしょう」


 課長は頷いた。


「美咲のことは、一度も忘れたことがない」


 会場が静まり返った。


 私は胸が熱くなった。二人の気持ちが、とても純粋で美しく感じられた。


 会見が終わると、美咲さんが課長に言った。


「健一さん、今度の日曜日、時間ある?」


「あ、ああ」


「久しぶりに、大学時代によく行ったカフェに行きましょう」


 課長は嬉しそうに頷いた。


 私はその様子を見ていて思った。


 恋人召喚魔法は、確かに混乱を招いている。でも、時には美しい再会ももたらすのかもしれない。


「つばささん」


 田中さんが私の隣に立った。


「課長、幸せそうだね」


「はい」


 私は答えた。


「私たちも、こんな風になれるでしょうか」


 田中さんは私の手を取った。


「きっとなれるよ」


 私は希望を感じていた。


 魔法が終わっても、本当の気持ちは残るのかもしれない。


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 次回:第8話「研究所のハクチョウ、愛を解析す」

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