第9話

 ゴミ捨て場は、1階の裏口を出てすぐの場所にあった。裏口を出ると、日陰のせいかひどく暗い。初夏の夕暮れでまだ日は沈んでいないのに。


 ゴミ捨て場のドアを開こうとすると、鍵がかかっていた。ゴミ袋を地面に置いて部屋の鍵を差し入れると、カチャ、と軽快な音を立てて鍵が開いた。重い金属製の引き戸を開く。

 中は明かりがついておらず、真っ暗だった。入り口脇にあったスイッチを押す。明かりが着くと同時に、乃亜は持っていた袋を落として悲鳴を上げた。


 ゴミ捨て場の明かりの中に、腰が曲がった老婆が立っていた。

 灰色の上下のスウェットを着て、垂れ下がった白髪が右目を隠している。老婆はゆっくりと顔を上げた。


「……人を見て悲鳴をあげるなんて、失礼だね!」

 想像していたよりもはっきりした、しかし不機嫌な声で言った。一見した印象よりも、実年齢は若いのかも知れない。

「ご、ごめんなさい。人がいると思わなかったから。明かりついてついて無かったし……」

 乃亜は、そう言いながらほっと胸を撫でおろした。

「この時間なら、まだ電気をつけなくても見えるだろうに! それになんだい、こんな近くで大声を出して! 耳が痛くなるだろう!」

 老婆は気分を害したのか、乃亜に突っかかってくる。

「ほんとにごめんなさい。ゴミ捨て場に来るの初めてで、色々と慣れてないんです」

 そういうと、老婆は一歩近づいて乃亜を見上げた。乃亜はやや身長が高い方ではあるが、それにしてもこの老婆は背が低い。

「見ない顔だね……引っ越してきたばかりかい?」


 乃亜は、怜司の言葉を思い出す。


 『色々面倒だから、住人に会ったら最近引っ越してきたと言え』


 そうだ、今こそそう答えるべきだ。

「はい、今週に越してきたばかりです」

「ふうん。どこの部屋だい?」

「えーと、604号室です」

 部屋がこの老婆に知られたら面倒くさいかも、と思ったが、どうせ一週間の付き合いだ。場合によっては、二度と顔を合わせることもないかも知れない。

「ああ、またあの部屋か……」

 老婆は含み笑いをした。


「まったく、非常識な人間ばかり入ってくるもんだね」

 また? という言葉が引っ掛かる。

「あはは……よろしくね、おばあちゃん」

「誰がばあちゃんか! あんたは私の孫じゃ無いだろ!」

 年寄りキラーと呼ばれた乃亜の丸い笑顔も、この老婆には通用しないようだ。

「ごめんってば。ところでさっき非常識って言ってたけどさ、前に住んでた人が何かやらかしたの?」

 問題のある人物だったのだろうか。夜中に騒音を出すとか? それともベランダでバーベキューやるとか?

「……陰気な男だったよ。歳は30ぐらいかねえ。仕事に行く時は上等な背広を着ていたようだが、いつも背を丸めててね。すれ違っても私に挨拶もしない。こっちから挨拶してもだよ! あんな男、絶対に仕事ができないね、間違いないよ、こう見えてあたしゃ、会社を経営してたんだから」

「へえー、社長だったんだ! 見た目によらずすごいじゃん!」

「一言多いガキだね。あたしの実家は、昔この近くで金物屋をやっていてね……」

 老婆は昔話を語り出した。しばらく聞いていたが、終わる気配が無いので無理やり話に割り込んだ。


「あーわかるわかる、やっぱり、今の若者はその辺がなってないよね!」

「あんたも若者だろうが!」

「ところでさ、その、私の部屋に前に住んでた人、どのあたりが非常識だったの?」

「……どうもこうもないよ! ここにあんな物を捨てたんだよ、あいつは!」

「捨てた? 何を?」

「神棚だよ!」

「へ……?」

「まったく、罰当たりったらありゃしない。ちょうど私がゴミを出しに来た時に、神棚を捨てていったんだよ!」



 乃亜は部屋に戻ると、とりあえずテレビをつけた。何か音が無いと落ちつかない。大きめの柔らかいクッションを抱いて座る。そして、さっきの老婆との会話を思い出した。

 ……神棚をゴミ捨て場に捨てるか、普通?

 どんな理由があればそんな行動に至るんだろう。引っ越しで持ってきたけど置き場所に困ったとか? 買ってみたけど、部屋のインテリアに合わなかったとか?

 いくら考えても、納得のいく答えは思いつかなかった。そういえば、さっきゴミ箱に入っていた枯れた木は、神棚に備える榊では無かったか? カラカラに干からびていたが、葉っぱのようなものもあった。今から確認しにいく気力は無いが。

 何にしても、尋常では無い。乃亜は嫌な感じがして、クッションを強く抱きしめた。

 それにしてもさっきの老婆、名前は里中というらしいが、思いがけず前の住人の話が聞けたのは収穫だった。



 今日は、マンションに来る前に自宅でカレーを作り、タッパーに入れてきたものを食べて夕飯を済ませた。ゴミ捨て場で聞いた話が頭から離れなかったが、腹が膨らむと少し気持ちが落ち着いた。

 そう言えば、部屋の異臭も薄くなった気がする。カレーの匂いで上書きされただけかもしれないが。乃亜は食器を片付けると、仕上げとばかりにスプレー式の消臭剤を部屋中に撒いた。この消臭剤には、除霊効果もあるという噂もあるではないか。実際試したことはないけれど。


 しかし、気付かないふりをしていたが……少し前からテレビの音に混じってコツ、コツと音が聞こえる。気のせいだと自分に言い聞かせていたが、そろそろ無視できない頻度で音が鳴っていた。まるで、誰かが部屋の中を歩いているような。


 時計は、午後9時を回っていた。

 霊的な現象だと思うが、姿が見えないのもストレスが溜まる。見飽きているとは言わないが、外で見る分には幽霊はそれほど珍しくない。

 だが、家の中に幽霊がいると言うのは、対処法を持たない乃亜にとって脅威だった。はっきり言って怖い。経験上、姿を見せない霊は危険性が少ないと思っていたが、地縛霊の場合、そのテリトリーに入ったらどうなるかわからない。乃亜はリビングの中を見回した。変わったところは無いはずなのに、何だか不穏な気配がする。

 ……しかし、この部屋で過ごさなければならない以上、ずっと気を張っていては神経が削られる。乃亜は、音を気にするのを辞めて、ソファーに座るとヘッドホンをつけ、昨日の漫画の続きを読み始めた。


 バスケットボールの試合がクライマックスを迎えていて、ヘッドホンから流れるポップスが一層雰囲気を盛り上げる。スポーツに真剣に取り組む男子は良いな、と思う。自分にはできそうにないが。


 主人公のチームが逆転して勝利を収め、大会の次の試合に駒を進めた。しかし、水を差すようにヘッドホンから流れる音楽がブツ、ブツと音が飛び始める。


「なんなの、もう」

 スマホを操作して、別な曲を流した。軽快な女性グループの歌が流れる。また漫画に集中しようとしたが、やがて曲にノイズが混じり始めた。


 『……お、こ……か……』

 男の声が途切れ途切れに聞こえる。部屋の電灯が点滅した。乃亜は、開いていた漫画に映った人影を見て戦慄した。


 俯いた自分の前に、何者かが立っている。影が揺れて顔を近づけて来るのを感じた。

 『ぁぁぁぁあああ……』

 低い男の声がヘッドホンから聞こえて来た。乃亜は背筋粟立つのを感じる。視界の端に、裸足の足が見えた。土気色で、足の甲が浮腫んでいる。腐汁が滲んで、足跡を作っていた。


 顔を上げてはいけない。乃亜は、今すぐ走って逃げ出したい衝動を抑えた。幸い、まだこちらが見えていることに気付いていないようだ。

 乃亜は、ゆっくりと漫画のページをめくった。足が一歩、また一歩とゆっくり近付いてくる。

 漫画の内容が全く頭に入ってこないが、乃亜は何も考えず一定のペースでページを捲り続ける。


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