第7話

 電気ケトルでお湯を沸かす。今日の夕飯は、持って来たカップ焼きそばだ。じきに、お湯が沸くコトコト言う音が聞こえて来た。


 それにしても、部屋が暗い気がする。明るめの大きな照明がついているのに、何故か暗いのだ。自分の目が疲れているのだろうか。目をこすって部屋の中を見渡すが、特に変わったところは無い。

 カサ、と小さな音が聞こえた気がするが、すぐにお湯が沸騰する音に紛れてわからなくなった。

 もしかしてゴキブリ? こんな綺麗な部屋なのに? でも、前の人の家具がそのまま残っているのなら、ゴキブリも残っていても不思議では無い。むしろ、ゴキブリならまだ良いのだが…。

 寝室に続く廊下の明かりが点いており、ドアの中央の磨りガラスからその光が見える。貧乏症の乃亜は、もったいないから向こうの明かりは消そうか、と思った時。

 ドアの磨りガラスに黒い影が見えた。それは、人の形に見えた。

 乃亜が驚いて立ち上がると、影は奥に引っ込むように消えた。ポン、とケトルのお湯が沸いた音が静かな部屋に響いた。


「誰かいるの?」

 乃亜が呼びかけたが、返事はない。静かな部屋に外の車の音が聞こえてくる。……当然だが、他に人がいるなんて聞いていない。

 見間違いかもしれないが、万が一、何かがいた場合、確認しないでここにいる方が怖い。このマンションから逃げ出せない以上、このまま見ないふりをするのは考えられなかった。

 乃亜は、静かに歩いて移動すると、廊下のドアを開けた。左手の書斎のドアが開いたままになっている。ここも明かりがついたままだ。そっとドアを覗き込むが、人がいる様子は無かった。


 次に、一番奥の寝室のドアを開ける。誰もいない。他にいるとすれば、残るは和室のみだが……。意を決して、勢いよく和室のドアを開けた。しかし、そこにも人影は無かった。ほっと息を吐いてドアを閉める。

 少し考えた後、乃亜は明かりを消すのは止めた。どうせ、光熱費が請求されるわけではない。


 乃亜は、あまり味のしないカップ焼きそばを頬張った。業務用スーパーで買った、謎のブランドの安い物だ。特別うまくも無いが、手軽に腹を満たせる。どこで食べても味も変わらない。

 ふと、妹のことを思い出した。沙羅は夕飯を食べただろうか。適当にインスタント食材が置いてあるし、もう中学生だから勝手に食べると思うが。


 一週間、夜の居酒屋で働くことにしたんだ。夜は近くの友達の家に泊まるから、寂しいだろうけど、夜は一人で過ごしてね――。


 怪しいバイトに行くとも言えないので、そのように沙羅に伝えた。沙羅を1人にした事はないので、寂しがるかと思ったが、

「ふーん。食べ物があれば良いよ。あ、それとポテチは切らさないでね」

 とあっさり納得したので拍子抜けした。変に疑われたり、心配されるよりは良いが……。


 焼きそばを咀嚼する音に混じって、またカサ、と言う音が聞こえた。しかし、今度は気にせず食べ続ける。

 怜司は言葉を濁していたが、やっぱり心霊的な何かが起きるマンションなんだろうなと考える。幽霊が見えるという一点でスカウトされたし、家賃は安いって……もう、そういうことに違いない。


 乃亜はこの世ならざるものの存在を、物心がついた頃から見ることができた。友達も妹も皆、見えていると思っていたが、次第に自分にしか見ないことを理解した。

 見慣れているせいで、幽霊を見ること自体はあまり怖いとは思わない。そいつらの中には、首が無かったり、内臓が飛び出していたり、明らかに生命を維持できない姿をしていることもあるが、見た目だけで危険な存在とは限らない。大抵の者は、ただそこに居るだけだ。自我が薄れて、なぜ自分がそこにいるのかわからないのだと思う。また、自分が死んでしまったことに気付かない者もいる。


 しかし、時には生きた人間に強い悪意を持った存在もいる。経験上、特定の場所に縛られた霊はその傾向が強い。このマンションに取り憑いた霊がいるとしたら、危険性が高いかもしれない。

 人間に干渉できるくらい、強い怨念があったら? 今までは危ない雰囲気を感じたら、気づかないふりをして距離を置いていたがが、今回の場合は自分から相手のテリトリーに飛び込んでしまった形になる。より強い怒りをぶつけて来るかもしれない……。

 いや、悪い方に考えるのはよそう。乃亜は一人で首を振った。さっきの顔だけは良いが胡散臭い男も、何も起きないかもしれないと言っていたではないか。案外、ゴキブリやネズミが出て何か悪さをしているだけかもしれない。それに何より、これだけのお金を稼ぐチャンスを逃すわけには行かない。20万円あったら、何が買えるだろう……。

 

 ピンポン、と突然チャイムが鳴った。驚いて部屋を見回すと、玄関側のドアの脇のインターホンのランプが点灯している。誰だろう。怜司が忘れ物でもして戻って来たのだろうか? そっとインターホンのボタンを押すと、小さなディスプレイにエントランスの様子が映った。しかし、画面のどこを見ても人の姿は無い。

「どちら様ですか?」

 返事は無い。ディスプレイには依然、無人の玄関が写っている。誰かいるのかと注意深く見ていると、背後から何か物音がした。奥の部屋からだ。


 乃亜は奥の部屋に続くドアを開け、再び書斎へ行くと、本棚の上の段の本が倒れていた。本がぎっしり詰まっているのではなく、隙間が空いていたので、何かの拍子に倒れたのかもしれない。

 落ちていた本を拾い上げる。『女子高生コンクリート詰め殺人事件』というタイトルが目に入った。

 気味が悪い。前の住人の趣味だろうか? 嫌だな、と思いながらも本棚に本を戻した。しかし、本棚の背表紙を眺めてみると……さっきは目に入っていなかったが、似たような傾向のタイトルが並んでいる。『昭和の凶悪事件』、『異常快楽殺人』、『実録死刑囚の証言』、『秋葉原連続殺人』。どうも、犯罪を扱った本が多いようだ。絶対、自分とは趣味が合わないだろうなと思う。


 しかし、他の本棚も見ると推理小説も多い。そうだ、きっと前に住んでいた人はミステリー物が好きなのだろう、と自分を納得させた。それに、下の棚には漫画も置いてある。乃亜は、小学生の頃に流行った、バスケットの漫画を両手で抱えられるだけ取り出して、リビングに戻った。


 何もする事がないからちょっとした物音も気になってしまうのだ。乃亜は自分にそう言い聞かせると、持って来たヘッドホンを両耳に当て、大音量で音楽を流しながら漫画を読み始めた。勉強した方が良いだろうと心のどこかで思ったが、こんなところで勉強に身が入るとは思えない。

 その試みは狙い通りになり、漫画に集中していると、あっという間に時間は過ぎていった。


 午後11時を回った頃、乃亜はシャワーを浴びてジャージに着替えた。

 気が昂っていたせいかあまり眠くは無かったが、明日も学校がある。奥の寝室へ行き、ベッドに横になった。クイーンサイズのベッドはバネが入っていて柔らかかったが、布団に慣れた乃亜には少し気持ち悪かった。

 こんなところで眠れるのかな、と寝返りを繰り返す。クローゼットが目に入った。人が入れそうな大きなクローゼットだな、と思う。

 無理に眠るのを諦め、スマホで動画を流した。もうずっと起きていてやろう。そう思いながら漫才の動画を流していたが、日付が変わる頃乃亜は眠りに落ちていった。

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