第2話

 その夜、乃亜はソファーに横になりながら格安スマホを睨んでいた。一週間程、家計簿アプリでお金の記録をしてみたのだが、どう考えてもお金が足りない。お年玉の貯金も尽きようとしている。


 もしかして、今の状況は相当まずいのではないだろうか? このままだとご飯が食べられなくなるし、アパートの家賃も払えなくなる。もしそうなったら、どうする? ……役所に相談すれば、何かの補助が受けられるかも知れない。特に沙羅はまだ中学生だし、アパートを追い出されても、どこかの施設で保護してもらえるかも。私はどうなるかわからないけど……。


「お姉ちゃん、何で暗い部屋で唸ってるの?」

 寝室のドアを開けて沙羅が顔を出した。後ろからは軽快な男性ボーカルの音楽が聞こえる。

「何って、電気代を節約してるんだよ」

 横になったまま答える。

「ふーん、そうなんだ。……ねえ、お願いがあるんだけど。ヘッドホンマイク買ってくれない? 最近できた友達とボイスチャットしながらゲームしたいんだ。安いのでいいから」

 沙羅は上目遣いで乃亜の顔を伺った。

 乃亜は一呼吸つくと、ソファーに乗っていたクッションを勢い良く投げた。狙いは外れて、寝室のドアにぶつかる。

「バカ! 今、うちがどんな状況かわかってんの!?」

 乃亜は上体を起こして沙羅に向かって叫んだ。

「わかってるよ! お母さん、私達を捨てて出て行ったんでしょう!?」

 沙羅は足元に落ちたクッションを踏みつけて怒鳴り返した。予想外の剣幕に、乃亜は言葉を飲み込む。

「いつかこうなると思ってたよ! お母さん、しょっちゅういなくなってたし、いつかは帰ってこなくなると思ってた!」

「そんなわけないよ! どうしてそう思うの!」

「お母さん、私のこと嫌いだもん! いつも私の事、お姉ちゃんに比べて出来が悪いって言うし、いつも文句ばかり! 私が何を言っても、学校に行けって言うだけだし……私がどんなに辛かったか知ろうともしないで!」

 部屋の明かりを背にしているので顔はよく見えないが、泣いているのがわかった。

「……母さんは沙羅のことが心配なんだよ。それはわかるでしょ? 学校に行けって言うのだって、母さんはそう出来た方が良い思ってるだけで、強制してるわけじゃないんだから」

 乃亜は、沙羅を落ち着かせるためゆっくりと話した。

「それに、もし本当に母さんが帰ってこなかったらどうするのさ? あまり沙羅には心配かけたく無いから言わなかったけど……。もうすぐお金が無くなるよ。お母さんのへそくりも使っちゃったし。食べ物だって買えなくなるよ」

「私は別にいいよ、死んだって。生きてても、いい事なんか無いし」

「いい加減にして! そんな覚悟も無いくせに!」

「うるさい! お姉ちゃんのバカ!」

 沙羅はこれ以上の話を拒絶するようにドアを閉めた。再び暗くなったリビングで乃亜は一人溜め息をついた。


 あんなんじゃ、とても一人で生きていけると思えない。学校に行けなくなったのは、いじめもあったし本人だけのせいじゃ無いけど……色々と拗らせてしまっている。

 やっぱり、自分が何とかするしか無い。今月中に母さんが帰ってきてくれたらいいけど、そろそろ希望的観測は捨てるべきだろう。


 とりあえずお金を稼がなきゃ……。

 スマホでアルバイト紹介のアプリをダウンロードして検索した。真っ先にヒットした近所のスーパーは、2ヶ月前にバイトしたことがある店だった。でも、廃棄弁当持ち帰りすぎてクビになったから……もう応募しても駄目だろうな。他に並んでいるのは牛丼屋、引越し業者、ファミレス。高校生歓迎、の文字が並んでいるし、興味がないわけじゃ無いけれど……正直、給料が安い。とてもじゃないが、毎日働いてもこのアパートの家賃すら払えそうに無い。

 次から次にスクロールしては、変わり映えのしないバイト案内を見ているうちに、気がつくと乃亜は眠りに落ちていた。

 


 月曜日の朝、乗客が減り始めた下り電車を降りて駅を出ると、周りは同じ制服の学生だらけになった。

 ファッション広告から抜け出したようなキラキラしたした女子グループもいれば、我が道を行く奇抜な髪型の子もいるし、身なりに気を使わない地味なグループもいる。

 乃亜が、駅前のコンビニのアルバイト募集の広告を横目に通り過ぎると、髪の毛を後ろで一本に結えた女の子が近づいてきた。地味グループの代表みたいな子だ。

「おはよー、乃亜」

「……小春か。おはよ」

 乃亜はあくびをしながら言った。

「今日もひどい顔してるね」

「何それ、流石に私も傷付くんだけど……」

 小春は慌てた顔で手を振った。

「ち、違うよ! 乃亜が疲れた顔してるから、心配に思っただけだよ!」

 小春はぶんぶんと顔を横に振った。

「しかも、今日『も』って、前からそう思ってたんだ」 

「だから、言い間違いだってば」

「あー、心に傷を負ったわ、立ち直れないわー……お詫びにパン買って。1個で1日の半分ぐらいのカロリー取れるやつ」

「何でそうなるのよ!」

 小春は乃亜の背中を叩いた。冗談を言うのはいつものことだ。小学校からの付き合いの小春にはよくわかっていた。だから乃亜の顔色が良く無いことにも気付いた。

「もしかして、今日もお弁当無いの……?」

「あー、うん。もう少し体重を絞ろうと思ってさ」

 乃亜は目を逸らして笑った。

「乃亜、そんなに太ってないじゃない。一緒にお昼食べられないと寂しいよ」

 小春は子犬のような丸い目を潤ませた。


 母がいなくなったことを小春にも話していない。きっと話せば心配してくれるだろうけれど、そうなったらもう今までの平穏な日常が、完全に壊れてしまうような気がした。友達とは今までの関係でいたかった。

「別に何も食べないわけじゃないよ。それに、杏奈も一緒なんだからいいじゃん」

「杏奈、今日は来るかなー」

 小春は首を傾げた。杏奈は学校をサボりがちなのだ。

「ところでさ、小春」

「なに?」

「良いバイト知らない? すぐに稼げるやつ」

 小春は首を傾げた。

 

「すぐに稼ぎたいならP活でしょ」

 杏奈は大きな口でおにぎりを頬張りながら言った。長くてウェーブがかかった髪、大きな二重まぶたに茶色い瞳、そして178センチの高身長と、杏奈は中庭の中でも目立つ。母親がフィリピン人で、顔だちも彫りが深い。美人ではあるのだが、釣り上がった目と体格、遠慮しない物言いから敬遠する生徒も多かった。小柄な小春も杏奈に気圧されていた1人だが、4月のグループワークで一緒になったら意外と気が合って、以来一緒に過ごすことが多い。

「えーっ、それってもしかして」

  小春は大きな声を上げた。

「良いパパに会ったら、2、3万ぐらいはすぐに稼げるよ」

「だ、ダメだよ、そんなの! 不純だし、警察に捕まるかもしれないし、酷い目に遭うよ、絶対! 乃亜だって嫌でしょ!」

 乃亜は持ってきたおむすび(塩味のみ)をゆっくり噛んで、飲み込んだ。

「私は手っ取り早く稼げる方法を聞かれたから、答えただけよ」

 杏奈は悪びれずに言った。

「まさか、杏奈も……」

 小春は目をぱちぱちと見開いた。

「私はそんなことしてないよ」

 杏奈は大きな声で笑った。

「でも、中学の友達でやっている娘いてさ。どうしてもお金がいる子だっているじゃない? 乃亜はどうなの?」

 杏奈は艶かしい目で乃亜を見つめた。

「……やっぱり、それは無理だな」

 想像してみたが、自分には出来そうにない。自分にそれほど需要があるように思えないし、何より自分より相当年上の男をうまく転がせる自信が無い。

「ほら、やっぱりそうでしょ!」

 小春は安心したように言った。

「そう? どうしてもって言うなら友達に紹介できるから言ってね。お金が欲しいってことは、それなりの理由があるんでしょ?」

 杏奈はじっと乃亜の眼を見つめた。杏奈には見透かされているような気がして、目を逸らした。

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