第15話 あお II〜Blue Topaz II

「息を吸って! そう、その調子、吐きながら息むんだ」


聞こえてきたのは、しわがれた声だった。

あの娘が、助けてくれそうな人を、どこからか連れて来たのだろう。


すう、はあ、すう、はあ……


何が何だか考える余裕もなく、今はそれに従う以外にしようがない。


からだがバラバラになってしまうんじゃないか、と思うほどの激痛に耐え、あり得ないくらいの力を下腹部に込める。


「そうだ――頭が出て来たぞ、頑張れ」


ふたり分の手が、ファヨンの腹に強い力で圧をかける。


「もう一息だ」

「奥様、頑張って――!」


噛み締める奥歯が、粉々になってしまいそうだ。


(もう駄目)


そう思った瞬間、遠くの方で声が聞こえた。


「ほぎゃあ」

(産まれた)


胎内にとどまる周期も満たないまま産み落とした命が、無事産声をあげていることに、ファヨンはまず胸を撫で下ろした。


しかし、それでもファヨンは目を瞑ったまま、すぐにまぶたを開くことはできないでいた。


「あ、赤ちゃんは……」


震える声で、恐る恐る女中に尋ねる。

だって怖いのだ。

あの夢を見た夜からずっと、あってはならない悲劇に怯え続けている。


「五体満足です……立派な男の子ですよ」


「三月足りないと聞いていたが、充分に育っておる……奇跡じゃ!

これ、そっぽを向いていないで、自分で見てみい」


赤子を取り上げた老婆は、ファヨンの胸に生まれたばかりのその子を、慣れた手つきで横抱きにさせる。


(……温かい)


ゆっくりと目を開けると、その子は確かにヒトの形をしていた。

ファヨンはその小さな生き物の、小さなくちびるに乳房を近づけた。


するとすぐにそこへ吸い付き、こじんまりとした顎をコクコクと動かし始める。


(可愛い)


「あら奥様。この赤ちゃん、こんなところに黒子が」


女中がそれを見つけ、目を細める。


「ああ、珍しいな」


そう合いの手を打つ、見ず知らずの老いた女の口元に目をやると、すっかり衰えて薄くなったその顔には、数本の縦じわが深くくっきり刻まれていた。

そして、あるべき眼球の代わりに縫い合わせたような窪みが広がる目元は、まるで何も見えぬはずなのに、ファヨンを射抜くかのようにそこに在った。


「何をしている? アタシなんて眺めてないで、赤子を良く見てみい」


そう怪訝な調子で言われ、ファヨンは慌てて不躾な視線を反らした。

ぎゅ、と握られた小さな拳を見ると、健気にもちゃんと5本の指が備わっている。

そしてふたりの言うように、右手の基節骨の付け根にはちっちゃな黒子があった。


見つめれば見つめるほど、じわじわと愛しさが沸き上がってくる。

マシュマロのような質感をした頬に手を伸ばすと、小さなまぶたがぴくり、と動いた。


そしてゆっくりと……ほんの数ミリ覗いたそれを見た時、全身が凍り付いた。

しかし、ファヨンより先に、老婆が悲鳴に似た声を浴びせる。


「この赤子は、瞳が真っ青じゃ……!

何と言うことだ、おまいさん、まさか、青い鬼と契ったのか」


(青い鬼?)


――そうか。

あの夜、私の上に覆い被さっていたのは……。


でもまさか……そんなことって……。


しかし、確かに、今自分の腕の中にある、この子の瞳は――

青く透き通った宝石のよう。


遠のいていく意識の中で、ファヨンは思い出した。

ファヨンの亡き父が、かつては盗賊頭としてその名を轟かせていたという話。


美しい魔物のような青い鬼を根こそぎ狩り、根絶やしにしてしまうほどに凄惨な殺戮を繰り返していたという噂。


今の自分の生活が、そういった犠牲の上に成り立っているということ。


(これは罰だ)


天は。

亡き父に与える罰を、娘である私に下したのだ。

これから、まさに幸福の絶頂を迎えようとしていた私に。


「お目覚めになりましたか? 奥様」


地獄の底にいるのだと思っていた。

しかし、そこは明るく、窓辺には燦々と、夏の明るい日差しが射し込んでいる。


「……ここは?」


「いやだ、寝室ですよ、奥様」


じきに、ぼやけた視界の焦点が合ってくると、確かに見慣れた部屋に違いなかった。

寝台の上で、仰向けに横たわるファヨンに、薄い影が落ちる。


「ファヨン」


頭上で声がした。


「……あなた」


「やっと気がつきましたね。気分はどうです?」


愛しい夫が、自分を見下ろして立っている。

ソンジュの口元は、緩やかな弧を描いていた。

そこまでは確認したものの、目を合わせることはできず、ファヨンはそのまま背を向けた。


そして、呟くように言った。


「……なぜ、ここに?」


「ああ、わたしですか?

貴方の様子が心配で、早めに仕事を切り上げてきたのです。

どこかで虫の知らせを感じ取ったのかもしれませんね」


寝台が、そこに腰を乗せたソンジュの重さで少しばかり沈むのを感じた。

そして、柔らかな手が、ファヨンの黒々としたびんを幾度となく往復する。


「よく頑張りましたね。ゆっくり休んでいなさい。

貴方は、お産の後すぐに気を失ってしまうほど頑張ったのですから」


「あ、赤ちゃんは……?」


「ああ、隣の部屋で乳母が見ています。心配は無用ですよ。

しかし……なぜ泣いているのです? ファヨン」


そう告げられ、気を失う前のできごとが、夢などではなく現実なのだと知る。


「あの子が――。あの子、目が」


「……目、ですか? ああ、それは大丈夫です。

わたしの弱視を受け継いではいないようだ」


「そ、そうじゃなくて――」


ファヨンの悲痛な、切迫した口調を、跳ねるように明るい別の声が遮る。


「奥様! 赤ちゃんをお連れしましたよ」


「ホラ、見ててご覧なさい、ファヨン。

こうして人差し指を動かすと、瞳が一緒に動くんですよ。

とても可愛らしい」


ソンジュは、女中が抱いたその子の顔の前で、立てた人差し指を左右に動かしてみせた。


(違う……違うわ)


澄み切った瞳は黒褐色で、手の甲の黒子もない。


(……わたしが産んだ子じゃないわ)


自分に、何が起きているのだろう?

何もかも知っているはずの女中が、そのままファヨンに近寄る。


ファヨンはますます混乱し、縋るような視線をその女に向けた。

女は、張り付いたような笑顔で微笑む。


そしてソンジュの隙を狙い、一度だけ、念を押すように大きく頷いた。


その女中の名を、イ・スンレと言った。


【つづく】

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