第14話 あお〜Blue Topaz

生まれたての陽が照らす清らかな空を、昼間の倦怠が少しずつ淀ませていく。

やがて名残惜しむように赤々と燃え上がり、自らを焼き尽くすように沈んでいった。


その様は、命あるものの一生に似ている。


今夜は、星が見えない。

夜空には湿り気を帯びて滲む、今にも消え入りそうな朧月がひとつ。


老婆の死に際の告白。

断片的な幾つかの事柄。


それらは、『優臣』としてわたしが見ていた世界そのものを根底から揺るがすのに十分なだけの、多くの矛盾と疑問符を孕む。


わたしの心にも、不安という影が落ちる。


何か……とてつもなく大きな、ミスリードを起こしてはいないだろうか?

そんな予感が、先を急ぐわたしたちの後ろ髪を引こうと、背後から煤で真っ黒に汚れた指先を伸ばす。


捕まるものか……!

わたしは決めたのだ。


だから、今夜は休まず夜通し歩くことにした。

より先へ、さらに先へと進むために。


そうやって、日がまた昇るのを待つ。

行く道を見失いそうな闇夜にも、やり過ごせばやがて朝がやってくる。


ハユンが望んだように、わたしは生きていく。


それより他に、ハユンと再び相見える未来を手繰り寄せる術など、ありはしないのだから。


◇◇◇


「あっ……」


ハユンが疲労で足元をよろめかせ、危うく体勢を崩した。

さすがのわたしたちも、ここにきて疲労の色を隠せなくなってきた。


手を差し伸べようと振り向くと、ハユンのすぐ後ろで、今歩いてきた道がばっくりと口を開けているのが見えた。


その中に、自分の姿を探してはいけない。

風が吹くたびにざわつく木々の擦れ合う音に、呼ぶ声を聞いてはいけない。

もし呑まれてしまえば、弱々しく発光する朧げな月さえも、割れ落ちてしまうだろう。


そうなったら最期だ。

永久に開けない闇夜に、一歩も前に踏み出せなくなるのは目に見えている。


生きるのだ。

希望という手札が、たとえ僅かしか残っていないとしても。


「優臣……ねえ、あれじゃない?!」


わたしが口にするより前に、甲高いトーンの歓声があがる。


山間から、僅かに見える水平線。

それは夜の姿をそのままそっくり写し出し、黒光りしている。

間もなくすると、放射線状の光が背後から広がって、生まれたばかりの太陽が頭を覗かせた。

水面に反射してきらきらと煌めきながら、曖昧な空と海とをまっぷたつ切り裂いていく。


……朝が来たのだ。


わたしは傍らにある、自分よりだいぶこじんまりとした手をたぐり寄せ、ぎゅう、と握りしめる。


それは、温かかった。


一瞬で闇を砕いてしまう、朝日よ。

沈んではまた昇る、太陽よ。

わたしはあなたのように生きていきたい。

どうか、真実と向き合える強い心をください。

あなたはわたしを、何処に連れて行こうとしている?


***


「いやあっ……!」


屋敷中に、けたたましい叫び声が響きわたる。

きめ細かでつややかな皮膚を、玉のような汗がびっしりと覆う。

ソ・ファヨンは、今日もまた、あの忌まわしい悪夢に引き裂かれるように目覚めた。


(悪夢ですって? あれが夢なもんか)


ファヨンは自嘲気味に、小さく口を動かす。

18年経った今も、あの忌まわしい記憶は、一夜たりとも彼女を解放しない。


新しく用意した息子夫婦の寝ている、閨のある方角に視線をやる。


(だとしたら、私はあの時からずっと……そして今も、この悪夢の中に居るのだわ)


だって、わたしは確かに産んだのだ。


青釉を上掛けしたような瞳をした、赤ちゃんを。


あの時から、わたしは心を亡くしてしまった。

だからこうして罪を重ね続ける。


それは彼女がイ・ソンジュとの婚儀を交わして、半年ほど経った時のことだった。

その夜、ファヨンは、言いようもない程の寝苦しさに目を覚ました。

自分のからだに、何かとてつもなく重い……何か、重石のようなものが乗せられている、そんな身動きできない程の圧迫感に。


恐る恐る薄目を開き、それが何かを確かめる。


(……!)


浅葱色、とでも言うのだろうか、翠がかった青色をした、大きな大きな塊が、自分に覆い被さっている。

驚きと恐怖で声が出せない。


(あなた――ソンジュ!!!!)


助けを求め咄嗟に腕を伸ばし、夫の寝ているはずの辺りを探るものの、その手は空をきる。


(ソンジュ……どこ?!)


寝付いた頃は確かに。

あの、どこか遠くを見ているような、神秘的な瞳をした美しい男の横顔が、隣にあった。

それを眺めながら、幸せな心持ちで眠りについたはずなのに。


ギシ……ギシ……ギシ……ギシ……


床のきしむ音が、自らの吐息と絡みつき、耳元で狂ったように響く。

闇の中で、得体の知れない熱が、粘りつくように肌を這い、内側から彼女を侵食していく。


それは加速し、次第に強固な意志となって、ファヨンの意識を深く、深く、支配していく。

抗う間もなく、身体は本能的な悦びに震え、理性が恐怖もろともかき消されていく。


頭が真っ白になる頃には、自らも激しく腰を突き上げていた。

吐息は、いつしか苦しみとも、艶ともつかない叫びに成り果てる。


「あぁっ!」


ファヨンはそのまま一気に上り詰めると、ガクン、と腰を落とした。


再び目覚めると、隣では愛すべき夫が、安らかに寝息を立てている。


(綺麗な寝顔)


その姿を見下ろしながら、下腹部にそっと手を当てる。


(あれは……夢だったのかしら)


夢というには、あまりにも生々しい感覚。

胎内には、まだ昨夜の記憶が、余熱を蓄えたまま残る。なのに――


(何もかも元通りだわ)


程なくして、ファヨンは身ごもった。

気が気ではなかった。


このタイミングは、どうしても最悪の事態を予感させるからだ。


(あれは夢の中のできごとに過ぎない)


心の中で、何度そう打ち消してみても、不安は拭えない。

周囲の者の喜ぶ顔を見るほどに、憂鬱な気分になった。


……ソンジュに、あの夜見た夢のことを話してはどうだろう?

いつも口元に、穏やかな微笑をたたえる夫。

しかし、その眼差しは出会った頃から、どこか空虚で、つかみどころのない色をしている。


ファヨンは、その瞳が、実は何も映していないことを知っていた。

角度によってキラリと光る、琥珀色の……時に冷たさを感じるほどに透き通った瞳。


(言えない。とても言えないわ)


加えて、悪阻が酷かったため、動くこともままならず、次第に床に伏せるようになった。


そして、十月(とつき)満たず、まだ七ヶ月にもならない、その日。

突然、断続的な激痛がファヨンを襲う。


しばらく横になったまま、じっとその痛みに耐えていたが、それは明らかに感覚を狭めながら繰り返し繰り返し波のように押し寄せてくる。


ついに耐えきれなくなって、うわごとのように声を漏らした。


「誰か……助けて……あなた……!」


しかしその時期、イ・ソンジュは亡きファヨンの父が一代で築き上げた事業をさらに広げるためにと、しばらく家を開けていた。


「奥様……?!」


代わりに駆けつけたのは、この家に仕える若い女中だった。

床の上で身動きできなくなってしまったファヨンが、彼女の伸ばした腕に縋りつき、助けを求める。


「……あ、赤ちゃんが」


「奥……いえ、ファヨン! 待って、今すぐ誰か呼んでくるから!」


幼なじみでもあるファヨンの一刻を争う事態に、女中は再びその部屋から駆け出した。


【つづく】

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