ほったらかしの物語について

niko

ほったらかしの物語について

 物語を作ることは、思ったより簡単で、続けて終わらせることは思ったよりも難しいことだった。私は普段あまりここに投稿せずに物語を作っては完成させたり完成させなかったりする。


 思い出したように投稿することもあるのだけれど、そんなとき私のアカウントには連載中のものがいくつかあったりして、なんとも言えない気持ちになる。カクヨムのアカウントもいくつかあって、それぞれに中途半端なものがある。別にそれらの物語のことを見捨てたわけではない。商業作家ではないから、気分で好きなように書くし、当然そこに金銭も責任も発生しない。しない筈なのに私は責任とある種の痛みを感じてしまう。経験上、私が一度離れた物語を再び動かすことは殆どない。


 ほったらかしの物語について考える。そこには空間があって、人があって、言葉があって、感情があって、匂いもあって、そしてきっと愛がある。それは私が過去に注いだものたちであり、虚構である筈なのに裏切ったような気持ちになる。裏切られたのはその物語であり、過去の私でもある。そこには責任のようなものが発生する。正しくは責任感が発生して、私の心の隅に、私はここにいるよと小さな主張をし始める。


 断片がある。物語にならない小さな断片が。それらは物語とは呼べないものだ。それを丁寧に育ててあげると、物語になる。幼い物語を、反抗期やすれ違いと向き合って乗り越えて、書き進めた先に物語の完結がある。ある、とはいったもののきっと完結はあっても完成は存在しない。もう、私は何もしなくて良いよね、あなたは立派な物語だよと思って、それで完結と心の中で区切りをつける。そこに至った物語は、誰も続きを書かないけれど、誰にも読まれはしないけれど、一人で時間が進んでいく。私は、物語をほったらかしにすることで、この手から離れないようにしている。それが意図したものでなかろうと、不十分な物語には手をかける必要がある。


 こんな考えは馬鹿々々しい。単なる文字の集合を物語と呼び、それの完成度であれこれ無いことを言ったり感じたりするのは。でも私たちは少なからず物語に救われてきて、物語を信じている。信仰と言ってもいいかもしれない。こんなのはもはや宗教と変わらない。私が生み出したものを、手放すために愛し続けることができるだろうか。面倒くさくて、投げ出してしまいたくなる。そして実際何度も投げ出してきた。私は物語を愛せるだろうか。

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ほったらかしの物語について niko @xeynototu

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