出られない館:2

 やがてこの館の主人であるという女性がやって来た。

 それは僕を瓦礫の中から救い出した女性だった。

 初めて見た時の印象とたがわず綺麗な人だった。背は高く百七十センチを上回る程ですらりとした体格で、顔立ちも人形のように整っていて、黒目がちで目が本当に大きい。

 女性は部屋に入って来るなり、僕の顔を見て握りつぶした花のような顔になって泣きじゃくった。そして僕の胸に飛び込んで来て嗚咽を漏らした。訳が分からないままとりあえず泣かせておいてやり、少しずつ落ち着いて来たのを見計らって僕は尋ねた。

 「君は誰だ?」

 「忘れてしまったのですか?」

 女性は黒飴のような瞳でじっと僕の方を見詰める。その瞳には困惑と、微かな期待のようなものが滲んでいた。

 「実はそうなんだ。自分が誰なのかも、良く分からない」

 「……そうなのですか!」

 女性はむしろ嬉しそうに両手を合わせて頬の隣に持っていくと言う仕草をした。

 「教えて欲しい。君は誰なんだ」

 「あなたの恋人です」

 背後で様子を見守っていたサイトウが「えーっ」と驚きの声をあげた。

 「いや今の『えーっ』ってどういう……」

 「高校時代からの付き合いなのです。一度心で結ばれてからというもの、ただの一度として離れたことがない無二の恋人です。共に人生を歩み励まし合い苦楽を共にし、今日までずっと肩を並べて来ました」

 「そ、そうですか。でも今の『えーっ』ってどういう……」

 「もう毎日、いちゃいちゃです。あなたは忘れてしまっていますがあなたは結構えっちです。外にいる時とかでもくっ付いて来て体をあちこち触ってきます。わたしは恥ずかしいのでいつもつい頬を赤らめるのですが、あなたはそれを知りながら服の中に手を伸ばしわたしの肉体を蹂躙します。もう、ぐちょぐちょです」

 「ぐちょぐちょですか」

 「そうして蜜月の時を送っていたわたし達ですがそれを引き裂く出来事が起こりました。この間の大雨でダムが決壊し、大洪水が起きてあなたはそれに流されたのです。安否が分からずわたしは不安な日々を送り毎日遅くまで泣きました。日が暮れるまであなたの姿を探し街を放浪する日々出した。もう死んでしまったのか絶望しそうになったその時……ああ、やはり絆の力は偉大なのだわ。わたしは瓦礫の中で横たわるあなたを見付けたのです!」

 女性はIと名乗った。この館に住むご令嬢で、職業は医者。父の経営する病院で、色んな科を回りながら研究している立場であること。病院は一族経営である為、僕はそこの婿となり病院を継ぐことになる可能性が高いこと、などを語った。

 「と、いうことは、俺も医者か」

 「いえ、学校の先生です」

 「は?」

 「学校の先生です。大学受験の時わたし、死ぬほどストーキングして医学部に行くように何度も何度も何度も何度も言ったんですが、あなたは教育学部に入りましたよね? 小学校に勤めてる訳ですが、仕事ぶりを見に学校に忍び込むと良く女子小学生にまとわりつかれています。明らかに男子より女子の方に人気があるの何なんですかねロリコンなんですか? 家を漁った時普通のエロ本に混ざって一冊だけそういう内容の官能小説見つけたし……なんかそういうのすごくいやーっ」

 「いや君ちょっとおかしいんじゃ……」

 「Nちゃんに手とか出さないでくださいよ? いくら小さい頃の私に似て可愛いと言っても……ねぇ?」

 「Nが誰だか知らないけど出さねぇよ。つか教師なら病院は継げないんじゃ……」

 「何とかなります」

 「いやならんでしょ」

 「絶対に、わたしが、何とか、するのーっ!」

 Iは床を繰り返し踏みつけ地団駄を踏んだ。

 「……俺の名前は?」

 「Mです。わたしはM君と呼んでいました」

 「そうか。ねぇIさん」

 「Iで良いです」

 「なあI。俺は洪水に流されて半死半生になっていたんだよな?」

 「そうです」

 「それを君が助け出した」

 「そうです」

 「でもどうして君の館で目覚めるんだ? そういう場合、ふつう病院に運び込まれるはずだろう?」

 「えっ? あの、それは……」

 Iは目を白黒させながらそっぽを向いた。

 「どういうこと?」

 「あの……えっと。そうだ! ここは病院! 病院なんです!」

 「え? そうなの? そうは見えないけど……」

 「この館は家の病院と直通の建物になっています。だから実質病院です。それは本当! で、最初は病院側で手当てをしていたのですが意識がなかなか回復せず、ベッドも一杯だし病院じゃなくちゃ出来ない措置がある訳でもありませんので、いったん館の方の客室に移動させたという訳です」

 「そうなのか」

 「そうなのです。決して今考えた訳じゃありませんよ?」

 「それは良く分かった。助けてくれてありがとう。このお礼は必ずする。それじゃあ、いったん俺を家に帰して貰っても良いかな?」 

 「なんでですか?」

 Iはみるみる目に涙を貯めながら、僕の手を取って言った。

 「もう少しここでゆっくりなさったら……」

 「いや、自分の家に帰れば色々思い出すかもしれないし」

 正直言うとこの館は随分と怪しい。サイトウなる化け物染みたぺらぺら男がいるのみならず、このIという女性だって胡乱なものだ。

 「あ、あなたの家には帰れません」

 「なんで?」 

 「えと……その……流されました!」

 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。

 「洪水で流されて跡形もありません。家財も貯金も全部それでおじゃん! だから家に帰ろうにも帰る家はなく、この館を出た途端にホームレスの暮らしを強いられることになります。それは嫌だと思うのでこの館にいてください」

 「……誰か君以外の俺の知り合いに会わせてくれないかな?」

 「それは出来ません」

 「なんで?」

 「えと……その……皆死にました!」

 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。

 「……死んだって、どういうこと?」

 「洪水で死にました。それはもう凄まじい大洪水だった為このあたり一帯の人は皆流されて死にました。そこにはMくんの知人友人がことごとく含まれており、Mくんの交友関係を全て把握しているわたしには分かりますが、ただの一人として生存者はおらずMくんは現在わたし一人を頼るしかない状況にあるのです。そうですよねサイトウさん?」

 水を向けられたサイトウは、そっぽを向いて口笛を吹きながら、冷や汗を浮かべながらこう言った。

 「まあ、うん。はい。そうなんじゃないすか? 知らんけど」

 「ほらぁ。サイトウさんも言ってるじゃないですかぁ」

 Iは勝ち誇ったような顔をした。

 「あのね、Iさん。ちょっといい加減に自分の言ってること考えようか。多分、俺の生徒だったという小学校の女の子たちでもそんなしょうもない嘘は……」

 「死ーんーだーのーっ! サイトウさんもそう言ってるのーっ!」

 Iはその場で激しく地団駄を踏んだ。

 「死んだのじゃない! ちゃんと本当のことを言いなさい!」

 「嫌なのーっ。Mくんに帰って欲しくないのーっ!」

 「わがまま言うんじゃありませんっ! もう良い! 俺、一人で帰るわ」

 「やーっ」

 「やーって……君いくつだよ」

 「Mくんと一緒の二十五歳なのーっ。行かないでーっ行かないでーっ」 

 無視して僕は部屋を飛び出した。Iは追いかけて来たが大股でずんずん歩き何を言われても足を止めないし口も利かない。こういう手合いの相手をするのは簡単だ。言っていることややることにいちいち反応しなければ良いのだ。

 館は木造で古い建物に感じられ、サイトウがちゃんと仕事をしていないのか掃除もいい加減で、ところどころ蜘蛛の巣が張ってあった。あちこち変色した木の床は一歩進む度軋みをあげ、だだっ広い空間には俺達以外に誰もおらず、廊下に照明はなく日が沈みかけた庭から差し込む明かりだけが頼りで、だとしても信じられない程薄暗かった。

 それでも僕は館の出口を見つけ出した。靴も履き替えず庭に飛び出すと、開きっぱなしの門に向けて小走りで進んだ。とにかく外に出てしまって警察にでも駆け込もうと思ったのだ。

 しかし妙なことが起きた。

 いつまで経っても門に辿り着けないのだ。

 僕は確かに足を動かしているし前に進んでいる。少しずつだが門に近付いてもいて、門の外にある道路が目前に広がっている。そこに近付いているのならやがて辿り着くはずで、たどり着けたなら門をくぐって外に出られるはずなのだが、いつまで経ってもそういうことが起こることはなく、残り数十センチ、数センチという距離が無限のように感じられる。

 「待ってっ、ま、ま……待ってよMくん。酷いです酷いです」

 Iが息を切らして追い付いてきた。僕は思わず足を止めてIの方に向き直った。

 「はあ……はあ。良かった。やっと追いついた」

 「ねぇI。これ、どうなってるの?」

 「ふつうの門ですよ?」

 「そんな訳ないだろ! どれだけ歩いてもたどり着けないんだぞ!」

 「それがふつうです。門までの距離がどのくらいあったとして、そこに辿り着くにはそこに至るまでの距離の半分まで進む必要がありますよね? で、その半分の距離までたどり着いたら、そっからまた半分の距離まで進む必要があります。これを繰り返して行けばどうなると思いますか?」

 「……永遠に門に辿り着かないってか?」

 「その通りです」

 「……似たような話を聞いたことがある。確か、一個のパンを無限に食えるみたいな話だったな」

 「そうですね。パンをまず半分だけ食べて、次にそのまた半分を食べます。その次はそのまた半分。このようにずっと半分こにするのを繰り返していけば、永遠にパンを食べ続けることが出来るという話です」

 「だが実際にそんなことは起こらない。俺の歩く歩幅もパンを食う一口の量も、極小の世界をいちいち半分に切り分けられる程、精密じゃない。そもそも、端から見て俺の歩幅はいったいどうなってるんだ?」

 「すごく細かくなっています。ある程度近付くと、一歩進むごとに歩幅はちょうど半分になりますから。ほんの数ミリは進んでるっぽいですけど、それでもほとんどその場で足踏みしてる感じです」

 「俺はそんなつもりはないぞ?」

 「なくてもそうなんです。そういう認識災害がかかるようになっていますから」

 「やっぱり門がおかしいんじゃないか! 催眠だか何だか知らないが、それを解け!」

 「わたしにもそれは解けないです」

 「本当か?」

 「そうなのです。つまりこの館から出られないのはわたしも同じなのです。だから、わたし達はずっとこの館の中で暮らしていくことしか出来ないんですよ。仲良くしましょう。ね?」

 そう言ってしなを作るように両手を合わせるI。

 「君が出ようとしても、俺と同じようなことが起こるってことだよね?」

 「その通りです」

 「だったら、一回君もこの門をくぐろうとしてみて」

 「良いですよ?」

 澄ました顔で言って、Iは門の前まで歩き始めた。

 Iは少しずつ開きっぱなしの門に近付いて行く。しかしその歩幅は少しずつ小さくなって、門の目前まで来てほとんど足踏みしているような形になる。

 ほら言った通りでしょうと言わんばかりの表情でこちらを見詰めるが、その足踏みはどうにもわざとらしい。ほんの少しずつ近付いて行くというよりも、完全に同じ場所で脚を動かすか、何なら微かにだが下がるような挙動も見せている。

 開きっぱなしの門の前でそれを続けるIの背中を、僕は力一杯押してみた。

 「きゃ、きゃーっ!」

 Iは道路へと飛び出して地面を転がった。そしてべそをかいた表情でこちらを振り向いて、すぐに門の内側に戻って来た。

 「何するんですかーっ!」

 「君さっきから嘘しか吐かないよね……」

 僕は白い目でIを見詰めた。

 「押すなんて酷いですよぅ。しかも道路になんて何かあったらどうするんですかいじめっ子なんですか? Mくんだけはそんなことしないと思ってたのに!」

 「君今門の外に出られてたよね?」

 「出られてましたよ! はい嘘吐いた! 吐きましたとも!」

 Iはとうとう開き直った。

 「なんで君は出られて僕は出られないの? 君が僕に何かしているんじゃないか?」

 「してないですよぅ」

 「答えてくれ。君は何者だ? この館はなんだ? 何もかも、明らかに異常だ。俺にいったい何をした? 俺の記憶を奪ったのも君なんじゃないのか?」

 「違いますよ」

 Iは目に涙を貯めて頬を膨らませた。

 「そんなことはしません。他の何をしても、どんな手を使っても、あなたの心を直接操ることだけはしないとわたしは決めているんです。だって、それは意味がないことなんだもの」

 「記憶を奪った訳ではないと?」

 「そうです。洪水に流されてアタマでも打ったんでしょう。これは本当です」

 「それは分かった。信じよう。ならば他の真実も話してくれないか?」 

 「真実なんて……」

 「君は俺と仲良くしたいんだろう? だったら隠し事はなしだ。きちんと事実を全て話して貰って、その上で好意を伝えられたのでなければ、俺の気持ちだって変わりようがないだろう」

 濡れた瞳でIは僕をじっと見上げる。頬を震わせて人差し指同士をつつき合わせ、視線を降ろして足元をじっと見つめる。

 「俺は君を怪しんではいるが、俺への好意だけは疑っていないよ。誠実な対応をしたいんだ。その為にはまず本当のことを話して貰う必要がある。どんなに酷い真実だとしても、何も話してくれないよりも悪いことはないはずだ。さあ、話してみるんだ」

 肩を震わせるIは僕の視線から逃げるように手遊びを続けている。小さな子供を追い込んでいるような気分だった。見た目よりも中身が幼いのだろうかと考えてみるが、しかし医者をやっているという話に嘘は感じなかった。立派な職業だからと言って立派な人とは限らないが、それでも、バカに務まる訳でもあるまい。

 悪戯をした理由を詰められている女子児童のように、下を向いて肩をぷるぷる震わせているIだったが、そこに助け舟を出すように声がかかった。

 「……あー。あのー、お取込み中のところ申し訳ないんすけどー……」

 サイトウだった。向かい合う僕達に歩み寄り、ペラペラの身体を風になびかせている。

 「そこで二人ですったもんだしてる内に、ですね? メシの支度がぁ、済んじまったって訳なんすよね? いえいえ、お話を邪魔をしに来た訳じゃぁないんすけどね。とにかく食いながら話すってのはどうなんでしょう? 冷めるとね、なんだってそれは、まずい訳ですから」

 Iは震える瞳で僕の方を見詰めた。

 僕は頷いておくことにした。

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