箱の中の少女の話:2
平成十六年四月某日
○
「おい。おいA! Aってば!」
Bの声がした。
教室で頬杖を付いていた私は、その騒々しい声でふと我に返った。
帰りのホームルームは既に終わりを告げており、教室にいるのは私とBと、日誌を手にしている日直の生徒だけだった。Bは私の顔を息のかかるような距離から切れ長の瞳でじっと見つめ、小首を傾げてから、無造作な声で。
「Aってさ、時々ぼーっとすることあるけど、何か悩み事でもあるのか?」
「何もないよ。少なくとも、Bちゃんに話すようなことは」
私はぶっきらぼうを装ってそう言った。Bは、中学時代剣道で国体優勝を果たした名残を感じさせる、しなやかに引き締まった腕を組み、私の憎まれ口を意に介した様子もなく応じる。
「じゃあ訊かないけどさ。帰り道、ちょっと付き合えよ。新しいトコ見付けたんだ」
「またいつもの心霊スポット巡り? せっかく高校生になったのに、そればっかりだね」
「別に良いだろ? っていうか、今度の場所はすごいんだよ。たった一メートル足らずの段差でしかないのに、飛び降りると必ず全身がグチャグチャになって死ぬとかいう、恐ろしい場所が……」
「悪いけど、今日はちょっと用事があってさ。また今度にしてくれない?」
断ると、Bは少しの間ごねた様子を見せたものの、やがて私の意思が固いことを悟った様子で「じゃあまた今度付き合えよ」と教室を立ち去って行った。
「また今度な、C」
去り際に、Bは日誌を描いていた日直に、そう声をかけた。日直は「はい」と柔らかい微笑みをBに向けると、書き終えたところらしき日誌を閉じた。
そのまま日直は席を立ち上がり、日誌を教壇の上に置いた。そして自分の席に戻り鞄を肩に掛けると、私の方に軽く会釈をして、教室の出口に向かった。
意を決して、私はその背中に声をかけた。「ねえCちゃん。ちょっと良い?」
日直は私を振り返る。「はい。なんでしょうか?」
Cは綺麗な子だった。体格は中背でやせ型。色は白く目は大きい。漆のような黒い髪を長く伸ばしていて、それが制服であるセーラー服に良く似合い、清純な女子高生のお見本のような気配を漂わせている。桜色の薄い唇は赤ん坊のように柔らかそうで、小づくりながら良く通った鼻筋は、どこか東洋人離れしていた。
「Cちゃんにね、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「あら。意外ですね」
Cは両手を合わせて小首を傾げるということをした。
「Aさんは、大事な相談事はBさんにするものかと思っていました。中学校の頃からの親友、でしたっけ?」
「別にCちゃんとも仲良いでしょう」
「そうですけど。でもまだ知り合って一か月でしょう?」
その通りで、Cとはそこまで深い付き合いがある訳ではなかった。その証拠に、Cが日直をしていても私は手伝わないし、Cの方も私に会釈こそすれ、友達同士の会話を仕掛けて来ることはなかった。
何かの班決めでもすれば、Bの次くらいに声を掛けることはあり得るかもしれない。だがそれでも、今現在のところは、四月と言う季節の曖昧な人間関係の中で距離をまさぐりあっているような、そんな相手に過ぎなかった。
「それにBって、良い子だし正義感も強いから、相談しにくいこともあってさ」
「何か後ろ暗い話なんですかね?」
「まあ、そうかな。それにCちゃん、オカルトとかもいけるでしょう?」
Cは自称霊感持ちだ。一緒に行動している時、ふとした瞬間、悪い気配がするということで、『こっちにはいかない方が良い』とか『それには触らない方が良い』とか言い出すタイプ。高校生にもなって真面目に取り合う物はいないが、他人を鬱陶しがらせる程アピールが激しい訳でもないので、煙たがられる要素にはなっていない。
「そう言う部分とか、性格とか考慮して、一番言いやすいのがCちゃんだったってことなんだけど……。ひょっとして、嫌?」
「全然。仲が良いって言ってもらえて嬉しいですし、頼ってくれるのも嬉しいですよ」
笑顔を向けられ、私はしばし押し黙る。本当に話して良いのか、そもそも話さなければならないことなのか、改めて吟味する。
そうしている間中、Cはあくまでも笑顔で私の話を待ち続けていた。Bや他の友人ならこうはいかない。急かさず、焦れず、受け身でじっと待つことが出来る。そしてこちらが何か仕掛ければ、必ず核心を捉えて切り返して来る。そんなCなら大丈夫だと、私は思った。
「実は、私」
それでも一瞬、どもって、それから改めて意を決して言った。
「前に、人を殺したことがあるかもしれない」
Cの表情が僅かに揺らぎ、柔和な笑顔を崩して目をパチクリさせた後、片手を手に当てて如何にも驚いたという様子でこう言った。
「ここじゃ難ですし、歩きながら詳しく聞きましょうか。長い話になりそうですし」
「うん。お願い」
ちゃんと本気にしてもらえたのを理解して、私は、改めてCに相談して良かったとそう感じた。
〇
私とCは、かつてYと共に少女を冷蔵庫に閉じ込めた山を登っていた。
枝を踏み折り、砂を蹴り、小石が転がって行く音がする。土と木の濃密な臭いに思わずむせ返りそうになる。
木と土に囲まれたCの清純な容姿は、まるで山に住む巫女かのように様になっている。手をかざし、呪文の一つでも唱えれば、物の怪の類を呼び寄せるくらいはやってのけそうだ。
「一つ言えることは」
私の話を聞き終えたCは、歌うような澄んだ声音で言った。
「わたしの知る限り、六年前に死亡または行方不明になった同世代の子供の話は聞いたことがありません。冷蔵庫の中から死体が発見されたという話も」
「それは私も知らない」
「調べたことがあるんですか?」
「いや、それはない。もしもそういう話が出て来たらと思うと恐ろしくて、新聞やニュースも見れないくらいで」
「目を背け続けて来たんですね」
「うん」
「それを間違った対処だとは、わたしは思いません。その閉じ込めた女の子……それが人間か怪異なのかは、確かめてみるまでは分かりませんが。しかしともかく、今、それがAさんから遠ざかっていることにも、間違いはないんです」
遠ざかっている……? 本当にそうなのだろうか? 毎晩夢に出て来てうなされ、それはいつ現実に侵食して来るかも分からない。そんな状態を、それでもこの子は『遠ざかっている』と言うのだろうか?
「このまま目を背け続けていれば、ずっと遠ざかったままかもしれません。だというのに、本当に、このまま山を登って、箱を開けてしまうんですか?」
そう言われると、私は足を止めてしまいたくなった。だが昨夜の自分の決意を思い出し、私は意思のこもった声で。
「登ろうと思う。だって、分かんないっていうのは一番怖い状態だよ? それを続けていられなくなったんだ。どんな結果になろうとも、向き合うことに決めたんだ」
やがて山道を登り切り、件の冷蔵庫のある場所に近づいて行く。
やがて、視界の先に、忌まわしき白い箱が現れた。過去に私とYが何かを閉じ込め、私の心の奥に冷たい重石を押し込め続けている、おぞましきパンドラの箱が。
「……何か音がしますね」
Cが言う。静寂の森の中で、幽かに何か軋みを上げるような音がする。重くて大きな物が震え、土を跳ね飛ばしながら暴れているかのような、そんな声が。
私は顔を青くしながらも歩みを続けた。音は少しずつ近づいて来る。冷蔵庫が振動しているのが目に映る。中で魔物が暴れているかのように軋みを上げる冷蔵庫の中から、戦慄すべき恐ろしい声を耳に聞く。
「許さない許さない許さない。殺してやる殺してやる殺してやる」
それは過去に聞いたのとまったく同じ声だった。冷蔵庫の壁を隔てているとは思えない程明瞭な、どす黒い憎悪と殺意と、悲しさを渦巻かせたような少女の喚き声。
「友達だと思っていたのに! 友達になれると思っていたのに! 許さない許さない許さない! 殺してやる! 殺してやる殺してやる!」
「Aさん」
慄然とする私に、Cが声をかけた。
「立ち去りましょう。これはどうにもなりません」
私は呆然としたまま冷蔵庫に視線を釘付けにされて動けない。
「Aさん!」
「……わ、分かったよ」
そう言って、私は冷蔵庫に背を向ける。
「もう忘れてください。大丈夫。あれはどんなに恐ろしくても、蓋を開けなければおそらくは閉じ込めておける類のものです」
「う、うん。……そうなのかな」
「そうです。あなたは怪異に魅入られてそれを閉じ込めた。そして身を守る為に閉じ込め続けている。それだけのことです」
……そうなのだろうか? 私は酷いことをしたんじゃないのだろうか? 一緒に遊ぼうと言いだした女の子に酷い仕打ちをして、狭くて真っ暗な箱の中に閉じ込めて、今も閉じ込め続けている。それはいけないことなんじゃないのだろうか?
何年も前に閉じ込められた少女が未だに箱の中で憎悪の声を上げ続けているだなんて、あり得る話ではない。だからあの箱の中にいるのは人ならざる物で、そんなものは閉じ込め続けるよりどうしようもない。Cの言う通り、それが正しい対処なのだ。
私がそう自分に言い聞かせた、その時。
「待って! 助けて!」
懇願するような、哀れみを乞う様な声が耳朶に響いた。
「もう出して。殺すなんて言ってごめん。お願い。ここを開けて!」
冷蔵庫の震えが収まる。ただ、泣きじゃくった声で懇願する少女の、一緒に遊んだあの時と変わらない、媚びるような声音だけが山中に響く。
その声が私の全身に染み入って……そして、私は立ち去るのをやめて冷蔵庫の方を向いた。
「……Aさん!」
Cが制止の声を上げる。
私は止まらなかった。
本当はずっとこうしたかった。自分の過ちを拭い去る為に、閉じてしまった箱を開け、中で泣いている少女を出してあげたかった。
でもその勇気が持てなかった。中に何が入っているのか分からなくて、怖くて、出来なかった。
本当だったら、これはもう取り返しのつかないことだ。人を閉じ込めて何年も経ったら普通はもうどうにもならない。中にいる人は死ぬ。どんなに後悔しても、時間は巻き戻らない。
けどあの箱の中の少女は、ずっと私を待ち続けていてくれたから。開けて欲しいと言ってくれたから。だから私は六年越しにそれを開けられる。今ならば、今こそは、あの子を暗闇から出してあげられる。
私は冷蔵庫の扉に手を触れる。Cが私を追いかけて来るが、間に合わない。
私は扉を開けた。
その途端、冷蔵庫の内側の暗闇が恐ろしい勢いであふれ出して、私の方に手を伸ばした。六年間一瞬たりとも光を浴びることのなかった。それはあまりにも純正の暗闇だった。どんなに泣き叫ぼうと内側にいるものを離さず、閉じ込め続ける残酷な闇。
「許さない」
少女の声がした。
「殺してやる」
暗闇は少女の形をしていて私の首に両腕を巻き付けた。そして冷蔵庫の中へと引き摺り込もうとする。抗うことのできない凄まじい力。私にはとてもなすすべがない。
これが報いなんだと、私は思った。このまま暗闇によって箱の中へと引き摺り込まれて、おそらくは永劫の時を孤独の中で泣き叫び続ける。それを理解して、私は絶望した。
「待ってください!」
Cの声がした。
闇は答えない。Cのことなど意に介さずに、私の首を絞めつけながら箱の中へと引き込み続けている。
「話を聞け! ざみにとらざなとりあにぐらすあみやくすやんえむじゃぶにぐらす! ぶらぞばらどみざにとらざなとりあ! ざみにとらざなどりあじゃぶにぐらす!」
暗闇がぴたりと動きを止める。
全身を僅かに痙攣させつつ、暗闇は身動きを封じられたようにその場で釘付けになっていた。
それを認めたCが、言い聞かせるような口調で穏やかに言う。
「……その人はあなたを助け出しました。あなたをその箱の中から出してあげました。その人のしたことは消えませんが、でもどうか許してあげてくれませんか?」
闇の中に少女の顔が浮かび、私の全身をじっと見つめた。むくれたようなその顔は、私の出方を伺っているかのようだった。
私は震える声でどうにか言った。
「……ごめんね」
「いいよ」
暗闇は霧散した。そもそも暗闇など最初からなかったかのように、森の静寂な空気の中に溶けて消え、この世のすべてから姿を消した。
澄んだ森と、錆びた冷蔵庫だけが残された。私は冷蔵庫の前に尻餅を着き、冷たい土の感触を両手に感じていた。
背後から温かい腕が私の首に回される。
「良く言えましたね」
Cの声だった。
私はCの方を向き、慈母のような微笑みを浮かべる彼女の胸に縋り付き、泣きじゃくった。
〇
「私、酷いことをしたのかな」
山を降りながら、私はCに向かってそう言った。
間一髪で助かったことへの恐怖と安堵と同じくらいに、私は罪悪感を覚えていた。ようやく出してあげられたとは言え、私が六年間、女の子を箱に閉じ込め続けた事実は消えない。それは永遠に私の心の中にしこりとなって残り続け、これまでとは別の形で私を苛むだろうと思われた。
「相手は怪異です。人ならざる化け物です。人間とは区別して考えなければいけません」
しかしCは静かな声で私にそう言った。
「あの子は……人じゃないっていうの?」
「あんなのが人な訳ないですよ。山にやって来た子供に声を掛け、一緒に遊ぼうとする類の人ならざる者です。こういう小さな山には良くいるんですよ」
「でも、動物でもないんでしょ」
「人じゃないという一点ではそれと同じです。あなたは幼い頃戯れに殺した虫けらを、心の底から悼んだりしますか?」
「…………」
「すいません極端でしたね。あなたが女の子の形をしたものを悪意で閉じ込めて苦しめたことに違いはありません。それに対する罪の気持ちは、ずっとあなたの心の中にあって良いのだと、わたしも思いますよ」
そういうCに頷きつつも、私はこう尋ねるのを禁じえなかった。
「ところでCちゃん。さっき唱えてた、変な呪文みたいなのってなに?」
「それは気にしないでください」
そう言うと、Cは目を反らして天を仰ぎ見た。
「山で見る夕焼けって、無性に綺麗ですよね。……それだけは昔から何も変わらないんですよ」
茜色の太陽はとろとろに溶け出しながら、周囲の空を自分の色に染め上げている。だが向かい側からは闇を孕んだ雲と共に夜が這い寄ってもいて、この美しき景色がやがて終わりを告げることを私達に示すかのようだった。
Cは空を見上げ続けている。私の質問に、ちゃんと答えるつもりはなさそうだ。
まあでも、それで良いのかなと思った。
不思議な呪文であの化け物の動きを止めたCのことが興味深くもあり、気味が悪くもある。ただ、これ以上Cにこのことを問い詰めたとしても私の為にならないのではないかという予感も、同じくらいにあった。
だから……私はこの子とは単なる友達でいよう。私の相談に乗ってくれて、私と共に怪異を閉じ込めた箱の前まで来てくれて、私の命を救ってくれたこの子と、普通の友達でいることにした。それは出来る、そうしたいと私は思った。
私達は他愛もない話をしながら山を降り、さらに少し歩いた三叉路で、私は言う。
「それじゃあ、また明日」
「はい。また明日」
一人になった私は、自宅を目指してぼんやりと歩く。
夜の帳は降りていて、あたりは暗くなっていたが、不思議と怖くは感じなかった。
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