『鼓動すらも奪って』

そこは暗い部屋の中。青白い肌になった動かない男に寄り添って一人の女の子が喋りかけている。


「……冷たいね。

そりゃそうだよね、もう何日も経ってるんだもん。体温なんて、とっくに抜け落ちてる。

最初は、まだちょっと温かかったのに。ほら、この胸のあたり、まだほんのりと生きてるような気がして、私、ずっとここに頬を押しつけてたんだ。そしたら、君の鼓動が聞こえるような気がして。……でも、今はもう、完全に沈黙だね。

静かだ。

それが一番、耐えがたい。君が黙ってるの、私、本当はすごく苦手だったんだよ。

覚えてる? 君が怒ると黙る癖、あれすごく嫌だった。声を出して怒ってくれた方が、どれだけマシだったか。

でも今の沈黙は、もう怒りでも疲れでもなくて、単なる「終わり」なんだもんね。

何をしても、もう返ってこない。

私が何を言っても、何をしても、君の瞳は動かない。

ねえ、そこにいるの? 本当に? それとも、ただの抜け殻なの?


……ふふ、ごめん、こんなこと聞いても困るよね。

死体に話しかけるなんて、変な人だって思うかな。

でも、君の体温が失われていく過程を、私はちゃんと知ってる。

君の皮膚がどんなふうに乾いて、血がどんなふうに滲んで、色がどんなふうに変わって、髪がどうまとまって、匂いがどう変質していくか――

全部、私が知ってる。誰よりも。

だって、誰も触れてないから。誰も君を、こんなふうに見てないから。

私だけが、君を全部受け入れてる。生と死の境界線すら超えて。


最期の瞬間、君はどんな気持ちだったのかな。

怖かった? 苦しかった? それとも、もう何も感じなかった?

私、そばにいたかった。

でも君は私を拒んだ。

「おかしいよ」って言った。「もうやめて」って。「重い」って。

そんな言葉ばかり。

私がどれだけ君を思ってたか、どうしてわかってくれなかったんだろう。

誰かと話すだけで気が狂いそうだった。

誰かと笑うたびに、胸の奥が焼けた。

君が他人に向けるまなざしのひとつひとつが、私にとっては地獄だった。

だから、奪った。

すべてを。君の未来を、自由を、命を。

でも、そうするしかなかった。

わかるよね?

ねえ、わかってよ。わかってくれなきゃ、私……私の中の“君”が泣いてしまう。


最初は、泣き崩れるかと思ってた。君を殺したとき、自分も壊れるって思ってた。

でもね、意外と静かだったの。

ナイフを抜いた瞬間、君の血が跳ねた瞬間、ただ「やっと」って思った。

これで、全部、私のものになるって。

君が二度と誰にも触れられないって。

誰かの思い出にも、未来にも、名前すら刻まれない。

そう、君はもう“世界”から消えたの。

私だけが、君を知ってる。

私だけが、君を覚えてる。

私だけが、君を抱いてる。

ねえ、これって、幸せじゃない?


この部屋の空気、君の匂いが染みついてる。

君が腐っていく匂いも、私は嫌いじゃない。

だって君の体から出たものだもの。

時間が君を分解していっても、私は全部受け止める。

肉が崩れても、私は離さない。

皮が剥がれても、私は頬ずりする。

骨だけになっても、私は会話をやめない。

だって、君は「存在」してるから。

ここに。私の腕の中に。

君の名前が、私の中で脈打ってる限り、君は生きてる。

他の誰にも触れられない君が、今ここで、私だけのものとして腐っていく。

この上ない幸福だと思わない?


もし、もう一度やり直せるなら……って思ったこともあるよ。

君に優しくして、穏やかに想いを伝えて、少しずつ仲良くなって、普通の恋人同士になる未来。

でも、それじゃダメだった。

だって私は、君の“全部”が欲しかったから。

君の予定帳も、思考の癖も、夢も、記憶も、心拍も、指の動きも、寝言も、無意識の笑みも、老いた姿も、死体の重さも、全部、全部、欲しかった。

普通の愛では足りない。

付き合うとか、キスするとか、セックスするとか、そんなことでは満足できなかった。

私は君を「所有」したかった。

完全に。完膚なきまでに。誰にも触れさせず、思い出にも混じらせず、ただ私一人のものに。


……ねえ、あのとき私を拒まなければ、君は生きていられたと思う?

違うよ。

どっちにしても、私は君を壊した。

それ以外の結末はなかった。

誰よりも君を見て、考えて、求めて、焦がれて、狂って、壊れた私が、他の選択肢なんて持てるわけないじゃない。

この結末は、運命じゃない。

“必然”だったの。

君が私に見つかった時点で、もう逃げられなかったの。


でも、心配しないで。

君が死んでも、私は君を裏切らない。

時間がどれだけ経っても、私はここにいる。

体液が染み出しても、皮膚が溶けても、蛆が湧いても、私は離れない。

だってこれは、“夫婦”の形だから。

私たちは、今、完全に結ばれてる。

戸籍なんていらない。誓いの言葉も、指輪も、式も、証人もいらない。

君が死んで、私が抱いているという、それだけが、最も純粋で絶対的な婚姻の証。

ねえ、今だけは嘘を許して。

「幸せだよ」って、言ってよ。

君の口からじゃなくていい。

私が代わりに言うから。

「僕は幸せだよ。君に殺されて、こうして君に抱かれて、世界で一番幸福だよ」って。

――ね、完璧でしょ?


明日になったら、君の目はもっと濁ってるかな。

でもその瞳すら、私は愛せる。

君の腐敗とともに、私は生きていく。

社会から切り離されて、時間からも落ちて、ただこの部屋で、君と、ゆっくり崩れていくの。

誰にも邪魔されない。誰にも見つからない。

完璧な世界。

やっと辿り着けた、理想郷。


……死んでくれて、ありがとう。

やっと、私たちだけの“永遠”が始まったんだよ。」

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