月夜に煌めく氷の刃
満月 花
第1話
夫が眠っている。
規則正しい寝息で。
隣で身を横たえていた妻である女は音もたてずに起き上がった。
女は己の意志に反して男の元へと嫁がなければならなかった。
華族の家柄であり、何不自由なく暮らしていた日々。
やがて、自分もお母様のように強くて温かい心惹かれる殿方の元へと嫁いで行くのだと、活劇やお伽噺でしか味わった事のない恋に娘心をときめかせていたのだ。
しかし、そんな心は無残に打ちひしがれる。
女の家は没落した。
父親は紳士的で聡明な男であったが、やはり名家らしく世間の荒波に揉まれていない甘さがあった。
それなりに成功を収めていた会社が新興事業に取って代わられた。
斬新な経営、突出した手腕も相まってあっという間に急成長したその事業主は、野心溢れる若獅子のような男だった。
その若者は、張り巡らされた罠でもがき苦しんでるような女の家に手をさしのべた。
援助してやるから、娘を寄越せと。
穢らわしい、どこの馬の骨とも知れぬ輩に娘は渡せない、と女の両親は切り捨てた。
しかし、若者は不敵に笑う。
貴方達は、そのうち私の前で膝を折るだろうと。
娘の両親は歯噛みした。
己の矜持が若者に頭を下げる事を許さない、しかし落ちぶれていく自分達にも耐えられない。
愚かなことだった。
娘の両親が選択したのは自害だったのだ。
仲睦まじい夫婦は互いに手をきつく縛り付けて短銃で胸を撃ち抜いていた。
娘に一言、すまないと文を残して。
まるで、嵐の中に放り出された状況。
混乱の渦の中、娘を力業で引っ張り出した若者。
泣き叫び抵抗する娘を強き成功者である若者から引き離せる者はいなかった。
若者は娘を手に入れた。
新しい生活に心がついていかない。
放心状態で、ときおり激しく感情を剥き出しにする娘に若者は辛抱強く接した。
己の恋情を吐露する甘やかな声、抱きしめる優しく温かい腕、若者はもうずっと前から娘に恋をしていたのだ。
月日は流れても、夫となった若者の愛は変わらない。
深い闇の中に沈み込んながらも娘はわかっていた。
娘は聡かった。
この革新的に発展する社会の中で、旧態の馴れ合いのみの会社が生き残れるわけがない。
時代が求める新しさに、いち早く目を付けた事業が成長するのは当然だ。
そして、それに取って代わられるのも致し方いことなのだ。
立て直そうと奔走するわけでもなく、ただその状況を嘆いていた。
己の矜持を守るために自害を選んだのは二人の弱さだったのだろう。
娘の両親に放り出された会社の立て直しにも若者は陰ながら手を貸していた。
わかっている、わかっているのだけれど許せない。
妻となった娘が、誰にも言えない秘め事。
娘は恋をしていたのだ。
あの若獅子のような男に。
初めて出逢ったのは、華族主催の宴の会。
その時に紹介されたのが、あの若者。
野心に満ち溢れる存在感、強い意志のこもる熱い眼差し。
まるで恋物語に出てくるような青年そのものだった。
どんな女性でも心を奪われそうな若者の姿に娘も心がときめかずにはいられない。
一瞬だけ触れた指先が、熱をもった。
震えるその指を悟られまいと、ぎゅっとハンケチを握り締めた。
いつの日か、彼が私を迎えに来てくれたら、熱い瞳と甘い言葉で求婚してくれたらと夢見ていたことも一度や二度だけではない。
それは若者に向けられた思慕だったのだ。
しかし、結果はあまりにも悲惨で。
女は立ち上がるとベッドを回って男の傍らに立つ。
ひんやりとした床の感触が素足に響く。
懐から出した短刀を握りしめ、ゆっくりと振り上げる。
愛してる、だけど憎い。
短くない月日を夫と暮らして、その優しさと深い愛情にふれた。
だけど、それを受け入れることはできない。
あの日、折り重なるように倒れいた両親の血塗られた亡骸が忘れられない。
全てを忘れて幸せなんてなれない。
愛してる、けれど憎い。
相反する想いが胸を引き裂く。
苦しい、苦しい。
もうこんな想いは終わりにしたい。
頭上まで高く上げた短刀が月の明かりで煌めく。
女の瞳から涙が止め処なく流れ落ちる。
そして、男の睫毛が微かに震えているのを、涙で曇った女にはわからなかった。
月夜に煌めく氷の刃 満月 花 @aoihanastory
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