第2話 素知らぬ顔の前奏曲(プレリュード)
中学を卒業してから高校に入るまでの春休み、私は一葉とふたりでどこかへ出かけるようなデートはしなかった。説明会とか健康診断とか、思いのほか用事があって忙しかったのだ。教科書や体操着も指定のお店に行ってそろえなきゃならなかったし、課題も出たし。
まったく会えなかったわけじゃない。何度か、一葉の犬の散歩につきあった。
一葉が犬を飼っているのは、女の子たちのウワサ話で聞いて、カノジョになる前から知っていた。犬の名前がサスケだというのは、カノジョになってから一葉に聞いた。
小五から飼っている犬だそうだ。小学生の間は、朝夕の散歩は一葉が連れていった。中学生になってバスケ部に入り、夕方の散歩の時間がとれなくなると、サスケの散歩は、朝は一葉、夕方はおじいちゃんの担当になったそうだ。一葉が犬を飼いたがったとき、お父さんとお母さんは『うーん』だったけど、おじいちゃんが味方してくれて飼えることになった、という話もしてくれた。
部活を引退してからは、一葉が早朝と夕方の両方に犬と散歩をするようになっていて、その夕方の犬の散歩に一葉がときどき誘ってくれるのだ。
犬は好きでもないけれど、嫌いでもない。一葉の犬は茶色くてそんなに大きくない犬で、カワイイ! とは思わなかったけれど、一葉に懐いているところは可愛かった。犬にじゃれかかられてくすぐったいような笑顔になる一葉もかわいかった。
「高校に入って部活が忙しくなったら、またサスケとあんまり遊べなくなるなあ」
そう言って、サスケの首からあごの辺りをくしゃくしゃしているところとか、見ていると私も笑顔になっていた。
散歩に誘われたときは、高台の神社の前で待ち合わせた。鳥居から続くゆるい坂道を下り、突き当たった川に沿って土手を歩く。
川土手は桜並木がピンクの花をつけていてとてもきれい。
「真凛は高校じゃバスケをやらないの?」
桜の下を並んで歩きながら、そんな話をした。
「うーん、どうしよう」
と、私は言葉をにごす。
「一葉は、バスケ、続けるの?」
「ハンドボールに転向しようかな、って考えてる」
「ハンドボール?」
あんまり聞いたことのないスポーツだ。いや、聞いたことぐらいはあるけれど、見たことはない。
「中学のバスケ部の先輩で、高校でハンドボール部に入った人がいて、オススメされたんだ。やってみると面白いし、部活数が少ないからインターハイも狙いやすい、って」
「せっかく今までバスケを続けたんだから、バスケ部で良くない?」
友だちに、私のカレってバスケ部なんだ、と言えば、えーカッコイイじゃん、と返ってくるだろうけれど、ハンドボール部なんだ、だと、ハンドボール部? と不思議な顔をされそう。私が一葉に聞き返したみたいに。
一葉は視線を落として少しだけ笑った。それ以上ハンドボールの話はしなかった。が、とにかく一葉は運動部には入るつもりらしい。そして、インターハイを狙う気のようだ。
実は、私は、バスケはもちろん、運動部には入らないと決めている。一葉には迷っているようなことを言ったけれど、高校の運動部は中学と違って練習も上下関係も厳しそうだから、やめておく。
中学のバスケは和気あいあいとして楽しかった。チームとしてはそんなに強くなかったけれど、レギュラーで試合にも出られた。だが、高校でもバスケをやろうとするのは、ガチでバスケが好きなコたちばかりなんじゃないだろうか。平均身長の私がその中でレギュラーをとるには人一倍がんばらなきゃならなそうだが、がんばったからってレギュラーをとれるとは限らない。せっかくの高校生活、がんばっても結局ベンチで過ごすよりも、のんびり系の文化部に入って部活以外のセイシュンを楽しむ方がいいと思う。
学校帰りには友だちと甘いものを食べておしゃべり、休日にはまったりマンガを読んだり、友だちとショッピングやカラオケしたり。
それから、余裕で高校に合格した一葉と違って、私は勉強をがんばらなきゃやばい、という現実問題もあった。それからそれから、一葉とのデートだって、ふたりとも運動部に入ったら日にちを合わせるのが大変そう。だけど、私がヒマな文化部に入れば、一葉の部活の休みに合わせてデートができる。──などなどの理由から、私は運動部には入らないのだ。
一葉と私は桜並木の土手を鉄橋まで歩いて、そこからスタート地点の神社に向かって坂道を上る。ざっくりと三角形を描いて神社に戻る感じだ。
私はこの神社への帰り道が好きだった。ゆるくカーブしながら続く坂道。石畳の歩道。人も車も少なくて、とても静か。道に沿って緑が多いのは、途中に緑地公園があるためだけじゃなく、庭つきの一戸建てが並んでいるからだ。
大きな門扉を構えた和風邸宅の目隠し塀からは、手入れの行き届いた屋敷森がのぞいている。と、思うと、公園のとなりにはプロテスタント系の小さな教会があって、まるで公園の続きのように白いフェンスと花壇に囲まれている。どの家もそれぞれにいい感じだったけれど、私のお気に入りは、ちょうど坂道の真ん中ぐらいにあるこじんまりした家だった。
家そのものは、竹箒を逆さにしたような高い木々に囲まれて、尖った赤い屋根が見えるだけ。その屋根には小さな窓がついていて、屋根裏部屋がありそうな雰囲気がまず素敵。アプローチには青紫の花をつけた草の絨毯が広がって、その中をレンガの小道が扉つきのアーチへと続いている。
アーチにはつやつやした緑の葉を繁らせる枝が絡みついていた。花はまだないけれど、きっとバラだね。もう少し暖かくなったら、アーチは花で包まれそうだ。
初めてその家を見たとき、子どものころに読んだ『秘密の花園』を思い出していた。庭がちょっと荒れた感じなのだが、それが逆にロマンティック。
「この家、かわいいね。どんな人が住んでいるのかな」
「空き家だよ」
「そうなの?」
それはそれで空想が膨らむ。どんな人が住んでいたんだろう。古いドールとか鳴らなくなったピアノとか、思い出の品物が残されていたりするのかな。
レンガの小道を歩いてバラのアーチに近づいた。素敵な家だからってジロジロ見るのは失礼だと遠慮していたのだが、空き家なら少しくらいのぞいてもいいよね?
一葉は私の後ろで立ち止まり、サスケはその場で『お座り』をする。
「俺が小四のときにミニバスに入った話、したっけ?」
「うん。した」
女の子たちのウワサ話でとっくに知っていたけどね。
「そのころ、俺、同学年の中でも体が小さい方でさ。試合中すぐにバテちゃうんで、体力をつけたくて、ランニングを始めたんだ。車が少ないから、この道を神社まで走って……そのときは、ここ、人が住んでた。五年生になる前に、引っ越しちゃったけど……」
説明されて、そうなんだ、と相づちを打ちかけたけれど、ふと疑問が浮かんだ。
この通りはとても静かだ。ほとんどの家が道に面して広い庭を構えていて、生活音は聞こえてこない。バラのアーチの家も、確かに庭が少し荒れた感じではあるけれど、一葉に聞くまで自分には空き家だとはわからなかったわけで……。
「この家は、人が住んでいるとき、にぎやかだったの?」
たとえば、小さな子どもがいて、庭で遊ぶ声がしていたとか。一葉が怪訝そうに私を見たので、あわてて言い添える。
「この辺の家、みんな静かだから、住んでいる人が引っ越しても気がつかなそうだな、と思って……」
ああ、と一葉が納得の表情を浮かべた。バラのアーチの奥に目を細めた。
「にぎやか、とはちょっと違うけど……」
言いかけたとき、ポン、とピアノの音が鳴った。
一葉が息を飲む気配がした。
私も、どきっ、としていた。ピアノの音は、一葉が『空き家だ』といった家から聞こえたのだ。
ピアノの音は低音から高音へとなめらかに流れ、それから幾つかの和音を響かせた。そして、一呼吸するくらいの静寂があって──。
メロディーが流れ始めた。甘くてキラキラする感じの……。聴いたことがある……。
「……この曲、何だっけ。有名だよね?」
一葉を見たけれど、答えは期待していなかった。一葉は、音楽の授業のクラシック鑑賞のとき気がついたら寝てた、なんて笑って話す男の子だったから。
『お座り』をしていたサスケが、突然立ち上がってバラのアーチに向かって走り出そうとした。一葉が気づいてリードを引き、抱きかかえるようにしてサスケを押さえた。
サスケはくーんと甘えた声を出して一葉をふり返った。サスケを抱えた一葉はバラのアーチを見つめていた。大げさにいうと、放心したように。
空き家からピアノの演奏が聞こえて、びっくりしている……にしては、驚きすぎの顔で、私は戸惑った。でも、どうしたの、と私がたずねる前に、一葉の唇が微かに動いた。
「……ショパンノノクターン……」
声、というより、音、のようだった。澄んだピアノの音に混じって。
それで、一瞬意味をつかみ損ねてしまった。すぐに、何の曲だっけ、という私の質問に対する答えで『ショパンのノクターン』だと理解したけれど。
なるほど、ショパンか。私でも知っている有名な作曲家だ。今まで忘れていたけれど、音楽の授業でも聞いた。そのときも、これ聴いたことがある、と思ったから、きっとものすごく有名な曲なのだろう。クラシックを聴くと眠ってしまう一葉もタイトルを知っているくらいなのだから。──うん、ショパンのノクターン、ね。
そして、私は気づいた。ピアノの音はアーチの奥から聞こえてくる、ということは……。
「一葉、この家、誰か、住んでる」
空き家じゃない。
「誰か、引っ越してきたんだね」
勢い込んで言ったけれど、返事はなかった。一葉の視線はアーチの奥に向いたままで。
「一葉?」
呼んだら、やっと私を見たけれど。
今まで見たことのない目をしていた。私を向いてはいるけれど、私を見ていないような。困惑しているようで……ちょっと感動しているような?
「一葉」
もう一度呼ぶと、やっと我に返ったようだった。サスケから手を離した。
「ごめん。行こう──サスケ、ゴー」
サスケは何だか名残りを惜しむようにバラのアーチにもう一度目をやったけれど、一葉の合図に従って歩き始める。
ショパンのノクターンは続いていた。私もアーチの奥に視線を向けた。それから、一葉のあとを追った。ロマンティックな雰囲気の家にぴったりな曲だと思いながら。
その日を最後に、一葉はサスケの散歩に私を誘わなかったけれど、気にしなかった。
やることはたくさんあった。女の子友だちと遊ぶ約束もあった。中学を卒業したから宿題のない春休みを過ごせると思っていたのに、高校から課題が届いた。しかも、どさっ、と。
一葉だって自分の用事があって、どさっと課題を受け取って、きっと私と同じくらいには忙しいのだ。
スマホで送ったメッセージの返事が遅れがちで短いのが、少しだけ不満だったけれど。あせらなくても、高校が始まれば毎日のように会える。
そして、いよいよ入学式の日がくる──。
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