【第25章】初めての和食:親子丼って何?

斎藤さんは上司の執務室の前でスマホを見ていたが、私が出てくるとすぐ顔を上げた。


「ねえ、ケン君、お腹空いてない? デュジャルダンさんからメッセージが来てね。近くの家族経営の小さな食堂で一緒に食べようって。リサちゃんも一緒に行くつもりなの。」


「リサ? あ、猿渡さん! ぜひお願いします! ちょうど近所を歩いてみたかったんです。」


発音の違いにはまだ慣れない。私にとって「リサ」より「ライザ」と呼ぶほうが自然だ。

とりあえず、今は「猿渡さん」と呼んでおこう。


コリーヌ・デュジャルダンという名前を聞いて、私はふとカリーヌ・マルタンのことを思い出した。

二人とも同じような自信に満ちた雰囲気を持っている。――やっぱり軍人同士だからだろうか。


「店はすぐ近くだよ。地下鉄・広尾駅の出口のすぐそば。歩いて数分くらい。」


「“広尾”? あれ、北海道にも同じ名前の町がなかったっけ?」


「そうなの? 私、北海道には行ったことないの。リサちゃんがホールで待ってるから、行きましょう。」


玄関ホールで猿渡さんと合流し、私たちは大使館の一般口から外に出た。

外の空気に触れた瞬間、冬の冷たさが身に染みた。


「うわっ、寒い! フランスより寒い気がする!」


「そう? 湿度のせいかもね。気温は3度くらいだけど、出発したときのパリはマイナス2度だったでしょ?」


たしかに、数字以上に冷たく感じた。これが“体感温度”というやつだろう。


歩きながらふと見ると、ビザ課の建物が閉まっていて、入口の横に小さな木の飾りが置かれていた。


「大使館にもクリスマスツリーがあるんですね!」


「違うよ、ケン君。あれは“門松”っていうお正月の飾り。よく見ると、ほかの建物の入口にも“注連飾り”があるでしょ?」


またしても無知をさらしてしまった。

日本語能力試験の勉強では、単語しか覚えていなかった。文化までは学んでいなかったのだ。

――まだまだ知らないことが多すぎる。


数分歩くと、交差点の向こうに人の波が見えた。


「同じ方向に行く人が多いですね。何かイベントでも?」


着物姿の女性や、厚着の人たち、そして年齢も様々な男性たちが、みんな同じ方向へ向かっていた。


「光林院が近いの。初詣は本来、元日の夜中に行くものだけど、最近は仕事で行けない人も多くて、数日後にお参りする人も多いのよ。おみくじ、引いてみる?」


「はい、ぜひ!」


「でも……やめておいたほうがいいかも。」


猿渡さんが小さく首を振った。視線の先には、ピンク色のツインテールに同じ色のコートを着た女の子がいた。

若い男性グループに近づこうとしている。


「“ピンキー☆ストリーム”っていう配信者。男性に突撃インタビューして、数秒でガードマンに追い出されることで有名なの。関わらないほうがいいわ。」


見ると、まさにその光景が目の前で繰り広げられていた。

彼女は抵抗しながらも、スタッフに引き離されていく。


「ケン君、とにかく着いたよ。食事が終わるころには、彼女もいなくなってるでしょう。」


店のドアをくぐると、元気な「いらっしゃいませー!」の声が響いた。

店内ではデュジャルダンさんが手を振っていた。


席に着くと、すぐにウェイトレスがメニューとおしぼりを持ってきた。

私の顔を見て一瞬固まり、頬を真っ赤にしてしまった。

胸元のネームプレートには「池上」と書かれていた。


「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください。」


学んだ日本語と紳士的な態度を試すチャンスだ。


「分かりました。決まったら池上イケウエさんを呼びます。」


彼女は驚いた顔をして、少し困ったように頷いた。


斎藤さんが笑いながら囁く。


「ケン君、名字の読み方っていろいろあるの。彼女は“池上イケガミ”って読むのよ。」


……赤面する番は私だった。

私はメニューで顔を隠しながら、何を注文するか考えた。


母は週末しか家に帰ってこなかったから、私は日本の家庭料理をほとんど食べたことがない。

家族でリールの回転寿司に行ったことがあるけど、母の評価は「まあまあ」だった。

フランス料理の基礎は勉強したが、日本料理については何も知らない。

――もう遅い、後悔しても始まらない。


日本の日本食レストラン。どんな料理が出てくるのだろう。


驚いたことに、メニューの値段はすべて漢字で書かれていた。

その中で、ひらがなで書かれた一品が目に留まった。

「おやこどん」

漢字がなければ、意味はまったくわからない。


「ねえマリさん、“親子丼”って何ですか?」

「簡単に言うとね……鶏肉のオムレツをご飯の上にのせたものよ。」

「それにします!」


[OYA]は“親”、つまり親。[KO]は“子”、つまり子供。

――ああ、そういうことか。親(鶏)と子(卵)。これ以上ないくらいわかりやすい名前だ。


コリーヌ・デュジャルダンが微笑みながら言った。

「それで、デュラン君。カミーユとの面談はどうだった?」


「大使ですか? いろいろ教えてもらいました。娘さんの話も出たんですが、よく分からなくて……」


「カミーユは映画好きなのよ。昔のSF映画でね、登場人物が未来に行く話があるの。その映画で未来に到着する時間と、娘さんが生まれた時刻が同じだったの。」


――古い映画の話? 父に聞いたら分かるかもしれない。

これ以上、自分の無知を晒したくはなかった。


「映画の話をすれば、きっとカミーユは喜ぶわ。ところで、うちの部下の印象はどう?」


誰のことだろうと一瞬迷ったが、斎藤さんが助け舟を出した。


「ケン君、デュジャルダンさんは猿渡さんの上司なんですよ。彼女は運転手でもあり、優秀なボディーガードなんです。」


初対面で評価するのは難しいが、私は素直に言った。

「とてもプロフェッショナルな方だと思います。きっとうまくやっていけると思います。」


その言葉に、猿渡さんが少し驚いたような顔をした。


「ケン君、明日は何をする予定?」


「できれば秋葉原に行って、兄弟へのお土産を買いたいです。それから、一年以上やり取りしている人に会いたいんです。」


「秋葉原? あまり男性向けの場所じゃないわね。池袋の方が安全かも。」


今度は私が驚いた。秋葉原といえば、アニメやマンガの聖地だと思っていた。


「驚いた? 秋葉の一部は、女性が理想の男性像を投影する世界なの。コントロールできなくなる人もいるかもしれないわ。」


斎藤さんの説明はもっともだったが、正直がっかりした。

フランスでよく話題になる東京の街といえば、まさに秋葉原だからだ。


私の表情を見て、猿渡さんが言った。

「朝早く行けば大丈夫。目的の店はどのあたり?」


スマホでページを開き、住所を見せた。


「このエリアなら問題なさそうね。近くに駐車もできるし、通りを歩くのも楽しいわ。」


「ところで、その会う予定の人とはどこで?」


「目白のフレンチレストラン“旅人の休息”に行こうと思ってました。」


デュジャルダンさんがすぐに反応した。

「知ってるけど、先月閉店したのよ。」


「えっ? でも公式サイトはまだ動いてますよ。」


「男性客が料理に文句を言って、シェフに毒を盛られたって訴えたの。行政処分で営業停止中なの。」


「うそだ! もう16時半に目白で待ち合わせしてしまったのに……」


斎藤さんは私の落ち込みを見て、申し訳なさそうに視線を落とした。

その隣で猿渡さんが少し考えてから言った。


「もし目白なら、友達がフランス風クレープ屋で働いてるわ。そこでもいい?」


「ありがとうございます、ライザさん! 本当に助かります!」


ゆっくり食事を楽しんで、大使館に戻るころには、時差の疲れが一気に押し寄せてきた。

あくびをした私に、斎藤さんが笑いながら言った。


「ケン君、そろそろ休んだほうがいいよ。明日は長い一日になるし……約束の途中で寝ちゃったら大変でしょ?」

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