【第26章】初めての目覚め
【ケン君の視点】
もう目が覚めていた。
眠ろうとしても、どうしても眠れない。
遠くでバイクのエンジン音が響く。
田舎では聞かない音だ。
スマホを見ると、まだ午前五時。
――これが「時差ボケ」ってやつだろうか。
ふかふかの布団から出たくない。
もう一度時計を見ると、六時を少し過ぎていた。
ドアの開く音がする。誰かが起きたのか、それともトイレに行くのだろうか。
この寮ではトイレは共用で、長い廊下を渡らなければならない。
喉が渇いた。暖房を強くしすぎたのかもしれない。
ちょうど誰かが起きているようだし、トイレの近くにある自販機で飲み物を買うことにした。
電気のスイッチがどこにあるか分からないので、明かりはつけない。
避難灯と消火設備の赤いランプの光だけで、十分に歩ける。
静かだ。本当に静かだ。
自販機の低い唸り声が、夜の静けさを際立たせている。
「ホットコーヒー、ホットココア……100円。安いな。」
外に見える街灯の光は、まるで夜空に浮かぶ星のよう。
――ここが宇宙船なら、今ごろどこへ向かっているのだろう。
缶が落ちる音が、まるで金属を叩いたように響いた。
「……誰も起きてませんように。」
ごうっという低い音。トイレの水を流す音だ。
少しして、猿渡さんがスポーツウェア姿でトイレから出てきた。
「田中さん? もう眠れないんですか?」
声は小さく、囁くようだった。
私は少し近づき、秘密を共有するように答えた。
「時差ボケみたいで……眠れなくて。」
「それは大変ですね。私は日本を出たことがないから……。」
その声には、ほんの少し寂しさが混じっていた。
「リザさん、何か飲みますか? おごりますよ。」
彼女は少し戸惑いながらも微笑んだ。
ふわっと石鹸とシャンプーの香りが漂う。――たぶん、少し前にシャワーを浴びたのだろう。
「“リザ”…? なんだか異国っぽい響きですね。」
「ごめんなさい、りささん。でも、名前と雰囲気が……モナ・リザを思い出させるんです。」
「お世辞ですよ。私、あんなに魅力的じゃありません。」
「そんなことないです。穏やかな表情が、人を落ち着かせます。きっといいモデルになりますよ。」
硬貨を投入する。
「じゃあ……何を飲みます?」
「えっ、本当にいいんですか? じゃあ……ブラックコーヒーで。」
一瞬ためらってから、彼女はフランス語で言った。
「Merci… beaucoup。」
しばらく話しているうちに、空が少しずつ明るくなっていった。
鳥のさえずりが聞こえる。
東の空が淡いピンクとオレンジに染まる。
「きれいですね……。」
「ええ……。」
二人並んで、東京のビル群に昇る朝日を眺めた。
今日もまた、長い一日が始まる。
「りささん、これからどうするんですか?」
「いつものように、大使館の周りをランニングします。」
「僕も行っていいですか? もう眠くないし、元気が有り余ってます!」
驚いたようだったが、嬉しそうにうなずいた。
「いいですよ。でも、いつも一時間くらい走ってますけど、大丈夫?」
【猿渡さんの視点】
昨日から、デュラン=タナカ様のサポート担当になった。
私にとって初めての“男性”の警護任務だ。
任務内容は、移動の同行、警護、そしてあらゆる場面での即時対応。
でも、まさか彼と二人きりで夜明けを迎えることになるなんて――夢にも思わなかった。
まるで朝ドラのワンシーン。
自分がそんな場面に立っているなんて、今でも信じられない。
2026年の始まりとしては、最高の朝だ。
斎藤先輩には本当に感謝している。
彼は今日、秋葉原に行く予定らしい。
渋谷よりは安全だけど、それでも油断できない。
男性が一人で歩くには、少し危険な街だ。
観光客が抱く“秋葉原のイメージ”は、もう昔の話。
今は大手チェーンとホテルが並び、少し歩けば女性向けの“理想の男性像”が溢れている。
……ちゃんと説明してあるといいけど。
一番心配なのは夕方。
彼が言っていた“日本の知人”との約束だ。
たぶん女性。
写真もなし、初対面、しかも人通りの多い場所。
危険の要素はいくつもある。
でも今は、それを忘れてこの時間を楽しもう。
男性と並んで走るなんて、これが最後かもしれない。
――できるだけペースを合わせて走ろう。
【ケン君の視点】
着替えを済ませ、大使館の外に出る。
冷たい空気を吸い込みながら、猿渡さんと並んで走り出した。
早朝の息は白く、吐くたびに小さな雲ができる。
寮の前の通りでは、小さなプードルを連れた女性とすれ違った。
私は元気よく「おはようございます!」と挨拶する。
彼女は驚いた顔をして、少し遅れて笑顔で返してくれた。
犬はワンワンと吠え続けている。
「リザさん、この辺りの人は朝が早いですね!」
「そう? もう七時ですし、普通ですよ。」
少し先では、母親と二人の娘がタクシーに乗り込むところだった。
窓から、娘の一人が手を振ってくれる。
「この交差点、見覚えがあります! 昨日のレストラン、あの角ですよね!」
「そうね。そういえば昨日、お寺に行きたがってたでしょ? 今なら空いてると思うけど、行ってみる?」
「いいですね! 行きましょう!」
コンビニ、カフェ、レストラン……いくつもの建物の前を走り抜け、
やがて灰色の瓦屋根を持つ立派な木製の門の前にたどり着いた。
そのとき――
突然、五歳くらいの女の子が走り出てきて、私のズボンにしがみついた。
「おにいちゃん! 一緒に写真撮って!」
「レナ! ダメでしょ、戻って!」
振り返ると、サングラスをかけ、金髪に近い短髪の男が駆け寄ってくる。
その後ろには妊婦を含む数人の女性たち。
「すみません、この子、どうしても“お兄ちゃん”が欲しいみたいで……。」
彼は一瞬止まり、英語に切り替えた。
「Sorry, I thought you were Japanese.」
私はその体格に圧倒された。私と同じくらいの身長で、まるでボディービルダーのようだ。
女性の一人が猿渡さんに話しかける。
「うちの子がご主人にご迷惑を……本当に申し訳ありません。」
「おにいちゃん!!」
「レナ、やめなさい!」
まるで妹たちのいたずらを思い出すような光景に、思わず笑ってしまった。
「僕はフランスから来た田中ケンです。レナちゃん、僕にも妹がいるんです。写真、いいですよ。」
「本当? ありがとうございます! 俺は山下正孝です。ようこそ日本へ、田中さん。」
「おにいちゃん、ありがとう!!」
彼の周りの女性たちがスマホを取り出して写真を撮り始めた。
「娘のわがままに付き合ってくれて感謝します。もし渋谷に来ることがあったら、ぜひ寄ってください。
妻が“北海道デリス”という店を901ビルの10階でやってるんです。」
「渋谷? “キング・オブ・シブヤ”以外に男性がいるなんて珍しいですね。
もし行く機会があったら、お礼に伺います。」
レナが笑い出し、山下さんも笑った。
「パパ、やっぱりおにいちゃんのこと知ってたんだ!」
「礼を言う? それは当然さ。俺は“オレハ”だよ。」
――まさか、セカセマのフォーラムでアドバイスをくれた“オレハ”本人が目の前にいるとは。
私は深く頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。
別れ際に再会を約束し、私たちは走り出した。
少しずつ、東京での人間関係が広がっていくのを感じる。
「ケン君、今日はこれくらいでいいわね。シャワーを浴びて朝食を済ませたら、秋葉原に行きましょう。」
「了解です。朝食ってどうしてます?」
「いつもはコンビニで何か買ってます。」
「フランスのブリオッシュとお菓子を持ってきてるんです。よかったら食べてみませんか?」
猿渡さんは嬉しそうに目を丸くした。
「本当に? いいんですか?」
「もちろん! もし斎藤さんに会ったら、一緒に食べようって誘ってみるよ」
私たちはジョギングで大使館に戻った。
寮へのんびり戻っていると、廊下で斎藤さんにばったり出会った。
そしてその朝、私たちは三人で朝食をとり、秋葉原へ向かうことになった。
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