第27話 瞋恚の業火
「〈五射・天花〉」
「〈
放たれた五本の雪矢を紅炎の羽が穿つ。相殺された衝撃で発生した白煙を斬り裂くように、桜夜は〈懸河〉で佳弥との間合いを詰めた。
致命傷にならないよう佳弥の胴部に〈水牙〉を食いこませた時、あろうことか彼女はいつの間にか雪像と化しており、その場で崩壊した。
桜夜と増美が愕然とする最中、背後から凛冽な声音が冴え渡る。
「〈
佳弥が放った一射はたちまち分裂し、数羽の大きな白鷺となって桜夜たちに奇襲する。
水と炎の権能で討とうとするが、雪客たちは優雅に舞うように追撃をかわし、極寒の雪風を吹かせた。
「くっ……!」
視界は真白に染まり、凍てついた空気に侵されて増美の肌が凍傷する。動きが鈍くなったところを白鷺が体当たりし、増美は地面に倒れた。
「増美さん!」
波状攻撃型の放出神技を放っても、白鷺の雪風によって技が凍りついて無効化されてしまう。ならば、と桜夜は〈滝つ瀬・鯉遊泳〉で加速し、〈早瀬〉で白鷺たちを斬りつけていく。
白雪の客鳥の苦悶に満ちた鳴声が木霊する。それに呼び起こされるかのように、蓮夜は一度目を堅く瞑ってはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ここは……」
「お目覚めか」
右方から聞き慣れない男の声がして、おもむろに目線を下げる。精悍な面立ちをした男は視線がかち合うや否や、得意げに口の端を吊り上げて言った。
「俺とは初めましてだな。花川嵐慶だ」
「花川、嵐慶……」
深い眠りから覚めたばかりで、まだ意識が判然としていない。しかし、あちらこちらから聞こえてくる爆撃や剣戟の凶音、それから――
「〈三射・銀花〉!」
淡い恋慕の情を寄せていた少女の焦燥を含んだ声音と、愛する姉に向かって矢を放つ酷薄な姿が耳と目に焼きついた。
「佳弥っ!」
そこでようやく記憶が鮮明になって、残酷な事実が己を呑みこんでは苛む。
佳弥こそが沈丁花の間者であり、己を眠らせ拐かした張本人。そして彼女はいま、眼前で姉や増美を射殺さんと躍起になっている。
「あ、ああ……」
心の奥底から負の感情が吹き荒れ、心身を侵食していく。
悲嘆は憎悪と憤怒を生み、やがてその瞋恚は蓮夜の血に巣食う邪神を呼び覚ます。
「ああああああ」
蓮夜の異変を告げる慨嘆の叫びに、桜夜ははっとして彼のほうを振り向いた。対して嵐慶はついにこの時が来たと言わんばかりに目を細め、本懐を遂げたことへの喜悦を隠しきれないでいる。
「蓮夜!」
怨嗟の呪縛にとらわれてしまった弟にはもう呼声すら届かない。
紅蓮の双眸からは赤々とした血涙が流れ、白皙の頬を伝う。
『姉ちゃん、ごめんね』
夢で見た蓮夜の姿と重なり、桜夜は総毛立った。
「蓮夜っ! だめ!」
即座に蓮夜のもとへ駆け寄ろうとするが、佳弥の雪客が立ちはだかる。しかし、炎熱の朱雀が雪客たちを追い立て、道が開かれた。
「桜夜さん、行って!」
増美の援護に感謝しつつ、桜夜は直進した。
瑞々しい水縹が禍々しい暗黒へと塗り替えられ、つぶらな赤瞳は次第に吊り上がっていく。頬や腕、足には強堅な黒鱗に覆われ、額からも枝分かれした二本の角が生え始めた。
「蓮夜!」
必死に伸ばした手の前に、〈緑爪〉を手にした嵐慶が立ちはだかる。
「どけ!」
「かつての主に向かって何だその口の利き方は」
蛇女状態であっても速いと感じざるを得ない一刀が肉薄した。咄嗟に〈水牙〉で受け、十字になって神々が威嚇し合う。
「くっ」
「蛇女になっても理性を保てるようになったのか。だが、それはお前がさらに弱くなっただけ。これでお前は完全に人を殺せなくなったわけだ」
「黙れっ」
「
言って嵐慶は〈水牙〉を押し切ると同時に、桜夜の腹部に強烈な蹴りを入れた。
刹那の呻きとともに後方へ弾き飛ばされ、桜夜は固い地面に背中を叩きつけられた。すると、身の毛がよだつ神籟が鼓膜をつんざく。
「――――――――‼」
形容しがたい霊妙な鳴声が、蓮夜の嘆きが、体の芯を震わせては己が胸を強く締めつける。凄まじい圧迫感に畏怖する桜夜の瞳には、悍ましくも美しい暗黒の龍が映っていた。その姿形は邪神たる龍蛇と瓜二つ。瞋恚を宿した赤眼からはいまだ紅血が流れ、剥き出しになった牙は業火を帯びている。
「蓮、夜……」
悪夢が現実となってしまった。
磔を打ち砕き、空高く飛翔しては寒慄の咆哮を轟かせる黒龍を、桜夜は茫然と見つめていた。立ち上がる気力すら湧かずに、ただただ目の前の惨状に打ちひしがれていた。
――蓮夜は私が守る。そう決めたのに。
父上と、約束したのに……。
己の弱さと約束一つ守れない不甲斐なさに失望し、花顔をひどく歪ませる。
「龍蛇の血もここまでだな」
桜夜の前に立ちはだかり、嵐慶は翠緑の切っ先を無慈悲に突きつけた。
「オレに背を向けたこと、地獄で後悔するといい」
〈緑爪〉を大きく振りかざし、桜夜の首元に狙いを定めては断罪の一刀を解き放つ。
蓮夜……。ごめん。ごめんね。
あの時、ちゃんと蓮夜の傍にいれば、こんなことにはならなかった。
あなたを、苦しめることもなかった。
「本当に、ごめんなさい……」
嗚咽混じりに謝罪する桜夜の首筋には、すでに凶刃が肉薄していた。だが、桜夜は回避の姿勢をとらずに涙を流し続ける。
龍蛇の痛哭が共鳴した瞬間、ぎんと金属同士が衝突し合う音が残響した。耳朶を打った異変に桜夜は伏せていた顔を持ち上げる。
「なに勝手に死のうとしてんの。桜夜ちゃん」
彼にしては珍しく、真面目に叱責するような沈着とした声音だった。
「……伊織」
「さっさとこいつ
やから早く立って。
副長たる伊織の指示にはっとして、桜夜は悲涙を拭いすぐに体勢を整えた。伊織も〈黒翼〉を交差させて受け止めた〈緑爪〉を押し返し、桜夜の隣に立つ。
「ほう。あの紅葉を討ったか」
嵐慶は興味深そうに目を細め、周囲に目を向けた。
紅葉は血の池に浮かび、妻である燕も同様に腹部を深く斬られ仰向けになっていた。だが、妻の凄惨な遺骸を目の当たりにしても嵐慶は眉一つ動かさない。
「燕も殺られたか。紅葉を殺したお前が燕を殺れないわけないか」
「仲間いっぱいやられてるっていうのに、ずいぶん余裕そうやな」
「オレと〈緑爪〉、それからあの黒龍がいればお前らを一掃できる」
「できるもんならやってみい!」
伊織が地を蹴ると同時に、桜夜も牙を剥こうとする。だが、悶え苦しむ咆哮をあげながら蓮夜は空を翔け、業火を吐く。罪業の火炎は沈丁花の兵士と仲間たちを呑みこみ、瞬く間に灰燼と化した。
「っ――!」
あまりにも重い罪業を蓮夜にも背負わせてしまった。これ以上、彼を苦しめるわけにはいかない。
――早く蓮夜を止めないと!
だが伊織も放っておくわけには……。
彼のほうを振り返ると、〈木〉と〈風〉の神威がぶつかり合い、鎬を削っていた。
「ここはいいから、桜夜ちゃんは先に蓮夜くん止めに行って! ボクのことは気にせんでいい!」
「だが!」
「このオレを相手に無駄口を叩ける余裕があるとはな」
お前の相手は後でしてやる。
嵐慶の正確かつ重い太刀筋が〈黒翼〉を通じて全身を震わせ、体勢を崩してしまう。嵐慶はその隙を見逃さずに神技を放った。
「〈
龍の牙の如く尖鋭な葦が無数に飛び散り、伊織の全身を穿つ。いたるところで鮮血が繁吹き、伊織は頽れた。
「伊織!」
「他人の心配をしている場合か」
瞬きの間に嵐慶は桜夜の前に接近し、〈緑爪〉を肉薄させる。辛うじて一太刀を受け止め、桜夜は歯を食いしばった。
「〈滝つ瀬・鯉遊泳〉」
急流に乗って一度嵐慶から距離を取り、縦横無尽に〈水牙〉を振り薙ぐ。
「〈打水〉!」
「〈
嵐慶が〈緑爪〉を地面に突き刺すと、穂先を起点として無数の
群集した荊に衝突するや否や〈打水〉はあっさりと散開した。そのうえ鞭のように荊がしなり出し、桜夜を襲い始めた。
一本断ち斬っても、また次の荊が迫りくる。すべての鞭を回避することはできず、白皙の肌はところどころ赤く染まった。
「うっ」
そのうえ肉を抉るような凄まじい痛みが襲い、深く残り続けた。だくだくと生気が抜けていくにもかかわらず、全身が鉛のように重くなっていく。
――これが〈緑爪〉の力……。
神器を手にしていない時でさえ、嵐慶は超人的な剣技と体術を備えていた。桜夜のように異形の血が流れているわけでもないというのに、純然たる人の血だけで暴乱する蛇女を制御することができたのだから、その実力は伊織以上だ。だが、青龍の分身である〈緑爪〉が彼を選んだことにより、嵐慶の能力はさらに増大し、絶対的なものとなった。
時世の運に見放された代わりに、他者を圧倒させる心身の天賦を与えられた男。それが花川嵐慶だった。
「いい加減早くその首斬らせてくれよ」
生物のようにゆらゆらと蠢く荊棘を背後に、嵐慶は桜夜へと近づく。そこで漆黒の翼が横切って翠緑の爪を防いだ。
「流石は剣聖の末裔。まだこの速さで動けるか」
「末裔じゃない。現在進行形で剣聖や」
伊織が援護してくれている間に、桜夜は奥義を解放する体勢を整える。
――蛇女の時間もそろそろ終わる。
自身が気を失う前に、嵐慶と蓮夜との戦いを終わらせなければ。
決着をつけようと奥義を放つ体勢になった時、総毛立つ龍の絶乎が背を打った。咄嗟に振り返ると、業火の息吹が寸前まで迫っていた。
辛うじてその息吹を避け、桜夜は嵐慶と対峙している伊織のほうへ視線を投げる。
「伊織!」
呼声が届き、伊織は蓮夜の罪火から距離をとった。嵐慶もまた綽然とした笑みを保ちつつ伊織とは対となる方向へ後退する。
「――――――――ッ‼」
両者は同時に顔を上げ、のたうち回るように空を翔ける黒龍を見据える。
「蓮夜くん……!」
どうにかして彼を苦難から助け出してやりたい。だが、眼前の大敵を見過ごすこともできない。
――どうしたら……。
増美が歯噛みして懊悩したのも束の間、ふと蓮夜の血眼が佳弥一人をとらえたのがわかった。佳弥もまた
憎悪と悲哀の眼差しがかち合った瞬間、蓮夜はさらに烈々たる咆哮を轟かせて佳弥へと一直線に突進した。
「蓮夜くん!」
止めようとしてももう遅い。いや、もはや止める手立てすらなかった。
赤黒の牙と爪が可憐な射手に迫る。しかし、なぜか佳弥は逃げることも迎撃することもせず、ただ彼の激情を受け入れんばかりにその場に留まった。
「蓮夜くん」
ごめんね。
静かに頬を伝った一筋の雫とともに、あまりにも鮮明で目を焼くような赤が弾けた。
鉤爪は少女の腹を裂き、顎は右腕を喰いちぎった。佳弥の華奢な矮躯は見るも無惨な形になり、その場で崩れた。
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