第14話

 学園長の周りを取り巻く闇の魔力はもはやただの力という概念を超えていた。それは意思を持つおぞましい生命体そのものだ。黒い粘液のように、あるいは無数の蛇が絡み合うようにうねりのたうちながら私たちを威圧する。その濃密な魔力が発する圧は私の呼吸を止め、骨がきしむほどの重さで全身にのしかかってきた。


 私たちがこれまで戦ってきた魔獣とは全く次元が違う。あれは数百年という歳月をかけて数多の魂を喰らい、その悲しみと絶望を糧として肥え太った純粋な悪意の塊だ。私の両膝が意思とは関係なくがくがくと小刻みに揺れ始める。足元の大地がまるで底なしの沼に変わってしまったかのように立っていることさえままならない。


 本当に私たちに勝ち目があるのだろうか。学園長はそんな私たちの恐怖をまるで極上の酒でも味わうかのように楽しげに眺めていた。彼はゆっくりと祭壇の上でその身を起こす。その痩身の周りを黒い稲妻のような魔力がバチバチと空間を焦がす音を立てて走り回っていた。


「さあ、始めようか。君たち二人を今年最も栄誉ある『贄』として、この学園の永遠の礎とする神聖な儀式を」


 その言葉は穏やかで温かみさえ感じさせるのに、その内容は人の世のものとは思えないほど冷酷で残酷だった。彼は私たちを『追放』対象者すなわち今年の生贄にすると宣言したのだ。真相にたどり着いた私たちこそがその口を封じるために、そしてその類まれな魔力を持つ魂を手に入れるために最高の獲物だとそう言っている。


「逃げられると思わないことだ」


 学園長が指をぱちんと鳴らした。その瞬間、この円形の広間は見えない何かに完全に覆われた。空気がぐにゃりといびつに歪み、私たちの空間は外界から切り離される。それは結界、しかも並大抵のものではない。この祭壇のシステムそのものを利用した絶対に破れない牢獄だった。


 私たちは一歩後ずさりしたが、背後には冷たく絶望的な見えない壁があるだけ。もうどこにも逃げ場はなかった。私とノアキス様は完全にこの狂気の支配者の罠の中に閉じ込められてしまったのだ。


 学園長はその右手の人差し指をゆっくりと私たちの方へ向けた。


「では、まずはご挨拶といこうか」


 その指先に夜の闇の全てを凝縮したかのような、小さくも信じられないほど高密度の黒い球体が現れる。それは次の瞬間、凄まじい速度で私たちめがけて放たれた。詠唱も魔法陣の展開も何もない。ただ指を向けただけでこれほどの破壊の力が生み出されるというのか。


 ノアキス様が咄嗟に私の前に立ちはだかり両腕を交差させた。


「――光壁!」


 彼の前に何重にも重ねられたまばゆい光の盾が出現する。しかし学園長の放った闇の球体はいともたやすくその光の盾に突き刺さった。パリン、パリンとガラスが砕ける甲高い音が連続して鳴り響く。一枚また一枚と光の盾が蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ粉々に砕け散っていく。その様は巨大な鉄槌で薄い氷を叩き割っているかのようだった。


「ぐっ……!」


 彼の口から苦しげな呻きが漏れる。彼の全力の防御魔法がこうもあっけなく。最後の光の盾が砕け散る寸前、彼は私の腕を掴んで力任せに横へと突き飛ばした。私と彼の体が地面を転がるのと、闇の球体がさっきまでいた場所を通り過ぎていくのはほぼ同時だった。闇の球体は背後の見えない結界の壁に激突し轟音と共に爆ぜる。その衝撃で広間全体が激しく揺れ動いた。


 私は何とか体勢を立て直し彼の方を見た。


「ノアキス様、ご無事ですか!?」

「問題ない。だが……これは想像以上だな」


 彼は唇の端から流れる一筋の血を乱暴に手の甲で拭いながら、忌々しげにそう呟いた。彼の顔には焦りの色が浮かんでいる。あの常に冷静沈着だった彼がこれほどまでに追い詰められている。どうしよう。どうすればいいのか。この圧倒的な力の差をどうすれば覆せるというのか。私の頭の中を絶望的な考えがぐるぐると駆け巡る。勝ち目などないのではないか。このまま私たちはなすすべもなくこの狂気の老人に魂を喰われてしまうのではないか。


 そんな私の心を見透かしたかのように学園長は楽しそうに声を上げた。


「ほう。今の一撃を防ぎきるとは。さすがはナイトレイ公爵家の麒麟児。そしてその君が庇うだけの価値があるということか。メイフィールド君、君の魂もなかなかに興味深い」


 彼は今度は私に向かってその指を向けた。まずい、次が来る。ノアキス様が再び私の前に立とうとするが、それより早く学園長の指先から第二の闇が放たれた。今度は球体ではない。無数の黒い針のような鋭い魔力の矢が、雨のように私たちめがけて降り注いでくる。


 もう防ぎきれない。私が諦めて固く目を閉じたその時だった。

 ふと、私の脳裏にあの遺跡で見た石版の一文が雷に打たれたように鮮明に浮かび上がった。


――『過剰なる生命の流入は、循環の理を乱し、大いなる器をも破壊する』。


 これだ。これしかない。

 闇の矢が私たちの体に突き刺さるその寸前、私は震える足で地面を蹴った。ノアキス様の手を強く引き、祭壇の巨大な石柱の死角となる場所へと転がり込む。ドドドドドッと私たちのすぐそばの地面に無数の黒い矢が突き刺さり、石の床を蜂の巣のように抉り取っていった。


 何とか直撃は避けられた。しかしこんな幸運がいつまでも続くはずはない。


「ノアキス様!」


 私は荒い息を整えながら彼に向かって必死に話しかけた。


「私に考えがあります。ですがそれはとても危険な賭けです」


 彼は私の真剣な瞳を見てその意図を察してくれたようだった。


「……聞こう」

「あの石版に書かれていました。この祭壇のシステムは外部から過剰な生命力が流れ込むと暴走すると」


 私は自分の考えを早口で彼に伝える。自分の生命力そのものを魔力に変換しこの祭壇に逆流させる。そうすればシステムが一時的に機能不全に陥るかもしれない。学園長はこの祭壇のシステムを通じて膨大な魔力を得ている。その供給が一瞬でも断ち切られれば、あるいはその制御に乱れが生じれば、そこに私たち唯一の勝機が生まれるはずだ。


 私のあまりにも無謀な作戦を聞いても彼の表情は変わらなかった。ただその紺碧の瞳が深く深く私を見つめている。


「……それはお前の命を削るということか」

「……はい」


 私が頷くと彼は苦しげに顔を歪めた。


「駄目だ。そんなこと俺が許すはずがないだろう」

「ですがこれしか方法がありません!」


 彼の腕を強く掴んだ。


「このままでは私たちは二人とも殺されてしまいます。ですがこの作戦が成功すればまだ道は拓けるかもしれません。それに……もう私は貴方に守られてばかりの弱いだけの私でいるのは嫌なんです」


 私の瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。


「貴方を守りたい。貴方の力になりたい。そのために私の命を使えるのなら私は少しも惜しいとは思いません。だから……お願いです。私を信じてください」


 彼は私の言葉をただじっと聞いていた。彼の瞳の中で激しい葛藤が渦を巻いているのが見えた。私を危険に晒したくないという想いと、この絶望的な状況を打開したいという想い。やがて彼は一つの長い長い息を吐いた。そして私の頬を伝う涙を、そのごつごつとした優しい指先でそっと拭ってくれた。


「……分かった。お前を信じよう」


 その声は苦渋に満ちていたが、その奥には私の覚悟を受け入れるという深く温かい愛情と信頼が込められていた。


「だが約束しろ。必ず生きて俺の元へ戻ってくると」

「……はい。必ず」


 私たちは互いの瞳を見つめ合い固く頷き合った。学園長が痺れを切らしたようにこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。


「さあ、いつまでそうやって隠れているつもりかね」


 その声はねっとりとした嘲りの色を帯びていた。

 今だ。


「少しだけ時間を稼いでください。そして私の合図で学園長に最大の攻撃を」


 私は彼にそう小さな声で囁いた。彼はこくりと頷くと私を石柱の陰に残し、一人学園長の方へと歩み出た。私はその隙に祭壇の最も魔力が集中していると思われる魔法陣の中心部へと駆け寄る。

 学園長は彼の動きに気づくと面白そうにその足を止めた。


「おお、ノアキス君。ついに覚悟ができたようだね。よろしい。では君から先にその魂を頂くとしよう」

「学園長。この茶番はもう終わりにしよう」


 ノアキス様は静かにそう言い放った。学園長の笑みがより一層狂気じみたものになる。


「茶番だと?これは神聖な儀式だ。そして君の妹もこの儀式によって永遠の栄光を手に入れたのだ」


 その心ない言葉が彼の最後の怒りに火をつけた。彼の全身からまばゆいほどの聖なる光の魔力が立ち上る。学園長の闇の魔力と彼の光の魔力が広間の中央で激しくぶつかり合った。凄まじい衝撃波が私の体を揺さぶる。


 彼が命がけで時間を稼いでくれている。無駄にはできない。

 私は祭壇の冷たい石の上に両手をついた。そして目を閉じ精神を深く深く集中させていく。自分の体の中心にある温かい生命力の源泉を探る。そして古の禁忌とされた術の祈りの言葉を紡ぎ始めた。


「わが血潮を聖なる滴に。わが魂を癒しの光に……」


 私の体の中から何かがごっそりと引き抜かれていくような奇妙な感覚。全身の力が抜け目の前が一瞬真っ暗になる。しかしそれに反比例するように私の両の手のひらから、まばゆいほどの金色の輝きが生まれ始めた。それはこれまで私が使ってきたどんな魔法とも違う、力強くどこまでも温かい生命そのものの輝きだった。


 けれどまだ足りない。もっともっと力が必要だ。私は歯を食いしばりさらに多くの生命力を魔力へと変換していく。自分の体温が急速に失われていくのが分かった。視界が白く霞み耳鳴りがひどくなる。まるで冷たい深い水の底へとどんどん沈んでいくような感覚。


 それでも私は手を止めなかった。ノアキス様の苦しげな声が聞こえる。学園長の高らかな笑い声が聞こえる。彼が危ない。その想いだけが尽きかけていた私の意識をかろうじて繋ぎ止めていた。


「今です!」


 私は最後の力を振り絞り叫んだ。

 その瞬間、私の両の手のひらから金色の輝きがまるで太陽が爆発したかのように溢れ出した。それは私の生命力の全てを込めた最後のそして最大の魔法だった。金色の奔流が祭壇の魔法陣へと激しい勢いで流れ込む。


 その輝きが魔法陣に触れた瞬間、祭壇全体が断末魔のような悲鳴を上げた。

 ゴゴゴゴゴゴ、と地響きと共に祭壇が激しく揺れ動く。石柱の青白い輝きが異常なほど強くそして不規則に明滅を始めた。システムが暴走を始めたのだ。


 学園長はその予期せぬ異変に気づくと驚愕の表情で慌てて祭壇の方を振り返った。その瞬間、彼の鉄壁だったはずの魔力制御にほんのわずかなしかし決定的な綻びが生じた。ノアキス様を押さえつけていた闇の魔力が一瞬だけ弱くなる。


 その千載一遇の好機を彼が見逃すはずはなかった。

 彼は残っていた力の全てと私への想いをその一撃に込めた。


「死ねぇええええ!」


 彼の魂の叫びと共に渾身の光の魔法が、一条の巨大なまばゆい閃光となってがら空きになった学園長の胸元へと突き刺さった。それは彼がこれまで使ってきたどんな魔法よりも力強く、どこまでも美しい輝きだった。


 学園長の信じられないという絶叫が広間にこだました。彼の体を内側から聖なる光が焼き尽くしていく。闇の魔力がその圧倒的な光の奔流によって跡形もなく押し流されていく。


 私たちはやったのだ。あの、おぞましい学園長の野望をついに打ち砕いたのだ。

 けれど私の意識はすでに限界に達していた。生命力をそのほとんどを使い果たしてしまった私の体はもう立っていることさえできない。私はその場に崩れ落ちた。


 最後に私の目に映ったのは血相を変えて駆け寄ってくる彼の姿。そしてその紺碧の瞳に浮かぶ深く温かい愛情の輝きだった。その輝きに見守られながら、私の意識は静かな暗闇の中へと落ちていった。

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