第9話
どれほどの時間が、あの薄暗い祭壇の前で過ぎていったのだろうか。
彼の慟哭が静寂に溶け込み、私の誓いがその空間に満ちた後、私たちはしばらく、ただ無言のまま、そこにいた。
けれど、その沈黙は、もう以前のような気まずさや、埋めようのない断絶を意味するものではなかった。
それは、嵐が過ぎ去った後の、静かで、そしてどこか澄み切った空気によく似ていた。
互いの魂の一番深い場所で触れ合い、一つの目的を共有した者だけが分かち合える、穏やかな一体感。
やがて、彼はゆっくりと立ち上がった。その動きには、もう先ほどまでの、壊れてしまいそうな危うさはない。
涙の痕が残るその横顔には、悲しみを乗り越えた先にある、鋼のような強い意志の色が浮かんでいた。
彼は、黒ずんでしまった銀のお守りを、まるで世界で一番大切な宝物のように、そっと制服の内ポケットへとしまい込む。
それは、妹君の思い出を、そして彼女の無念を、その胸に深く刻みつけ、これから始まる戦いのための力に変える、という儀式のようにも見えた。
「行くぞ」
彼が、私に向かって、短く言った。その声は、いつものように低く、落ち着いていたけれど、その響きの奥には、以前にはなかった、確かな温かみが感じられる。
「ええ」
私も、力強く頷き、彼の隣に並び立った。
私たちはもう、ただの『天才と落ちこぼれ』ではない。絶望的な状況の中で、互いの存在を認め合い、手を取り合った、運命の共同体だ。この学園の闇を暴き、これ以上、リアナ様のような犠牲者を出さないために。その目的が、私たちの間に、言葉以上の強固な絆を築き上げていた。
私たちは、祭壇のある円形の広間を後にし、再び、壁画の並ぶ長い回廊へと戻った。これからどうするべきか。それを、話し合う必要があった。
「この遺跡の存在、そして、学園が行ってきた非道な行いを、王家に報告すれば、あるいは……」
私がそう切り出すと、彼は静かに首を横に振った。
「駄目だ。証拠が、あまりにも不十分すぎる」
「ですが、この壁画や石版が……」
「古代の遺物に描かれた、解読の難しい絵と文字だ。学園側は、ただの迷信か、あるいは、何者かによる捏造だと、いくらでも言い逃れができるだろう。それに、王家の中枢にまで、学園長の手が伸びていないとも限らない。下手に動けば、俺たちは、真相が公になる前に、秘密裏に消されるだけだ」
彼の言葉は、冷静で、的確だった。貴族社会の暗部を知る彼だからこその、現実的な分析。私の考えが、いかに甘いものだったかを思い知らされる。
「では、どうすれば……。このまま、試練が終わるのを待つわけにはいきません」
「ああ。必要なのは、言い逃れのできない、決定的な物証だ。あの祭壇のシステムが、今もなお、生徒たちの魂を贄として機能しているという、動かぬ証拠。それを、手に入れる」
「証拠、ですか」
「あの魔道具。リアナのお守りが残されていた、祭壇の上の、あれだ。あれこそが、この『生贄』システムの、心臓部に違いない。あれを調べれば、きっと、何かが分かるはずだ」
彼の紺碧の瞳が、強い輝きを放つ。その瞳は、もう、ただ復讐の炎を燃やしているだけではなかった。その先にある、真実の解明と、システムの破壊という、明確な目標を、まっすぐに見据えていた。
「危険すぎる、とは思わないか」
彼は、私の顔をじっと見て言った。
「俺一人の問題なら、どんな危険な橋でも渡る。だが、お前を、これ以上、危険なことに巻き込むわけには……」
「いいえ」
私は、彼の言葉を、強い口調で遮った。
「もう、決めたことです。貴方が行くところに、私も行きます。それに、私にも、できることがあるはずです。あの石版の文字を、もう少し時間をかければ、もっと詳しく解読できるかもしれません。システムの仕組みが分かれば、きっと、安全にそれを停止させる方法も、見つかるはずですから」
私の言葉に、彼は、少しだけ、目を見開いた。そして、やがて、その唇の端に、ほんのかすかな、穏やかな線が浮かんだ。
「……そうか。お前の知識は、馬鹿にできんのだったな」
それは、あの妖精の泉で、彼が私にくれたのと同じ言葉。けれど、今、その言葉は、私の心に、あの時とは比べ物にならないほどの、温かい自信を与えてくれた。
そうだ。私には、私の戦い方がある。彼が、鋭い剣で闇を切り裂くというのなら、私は、その道を照らす、ささやかな明かりになればいい。
私たちの意見は、一致した。もう一度、あの祭壇のある広間に戻り、遺跡の謎を、さらに解き明かす。学園の闇を、白日の下に晒すために。
私たちは、互いの顔を見合わせ、力強く頷き合う。そして、再び、あの円形の広間へと、迷いのない足取りで、向かっていった。
祭壇のある広間の空気は、相変わらず、よどんでいて、重苦しかった。けれど、一度覚悟を決めてしまえば、もう、先ほどのような得体の知れない怖れは感じなかった。私たちの心の中には、恐怖よりも強い、真実を求めるという、熱い想いが燃えていたからだ。
「俺は、あの魔道具を調べてみる。何か、外部から干渉できる部分がないか、探ってみる」
「では、私は、もう一度、石版の解読を試みます」
私たちは、それぞれ、手分けして調査を始めることにした。彼は、祭壇の上に軽々と飛び乗ると、古びた魔道具の前に屈み込み、その構造を、食い入るように見つめ始めた。その真剣な横顔は、まるで、難解なパズルに挑む、学者のようでもあった。
私も、広間の隅に置かれた石版の前へと戻り、再び、その前に膝をついた。私の小さな光の玉を、石版の表面に近づけ、そこに刻まれた古代文字の列を、改めて、目で追っていく。
一度、全体を読んでいたおかげで、今度は、少しだけ、内容が頭に入ってきやすくなっていた。『贄』『魂の循環』といった、不吉な単語が、どのような文脈で使われているのか。それを、注意深く、探っていく。
――『始祖の祭壇は、森の生命力を、魂の濾過器を通じて、純粋な魔力へと変換する』。
――『濾過器の触媒として、最も適しているのは、若く、魔力に満ちた、人間の魂である』。
――『選別の儀式により、最も穢れなき魂を持つ者を、新たな触媒として、定期的に捧げなくてはならない』。
穢れなき魂。それは、きっと、魔力が純粋で、強力である、という意味なのだろう。だから、この学園は、王国中から、優秀な魔力を持つ貴族の子弟を集めているのだ。より良質な『触媒』を、効率よく手に入れるために。
アストライア魔法学園。その輝かしい名前の裏に隠された、あまりにもおぞましい実態。もし、このことが、世間に知られれば、学園の権威は、完全に失墜するだろう。だからこそ、学園長たちは、この秘密を、何百年もの間、守り続けてきたのだ。
その時だった。
「……おい、ルティ。少し、こっちへ来てくれ」
不意に、彼が、私を呼んだ。
ルティ。
彼が、初めて、私の愛称を呼んだ。その、あまりにも自然な響きに、私の体の動きが、一瞬だけ、止まる。
「どうか、なさいましたか?」
高鳴る気持ちを悟られないように、私は、努めて冷静な声で返事をしながら、彼のもとへと駆け寄った。
彼は、祭壇の上から、魔道具の一部を指さしていた。
「この部分なんだが、どうやら、魔力を流し込むための、注入口のようだ。だが、その蓋が、古代魔法の封印でロックされている。ここに、何か、文字が書かれているんだが、俺には読めん」
彼が指さす先を見ると、そこには、魔道具の表面に、小さな円形の窪みがあった。そして、その縁に沿うようにして、私が今しがたまで格闘していたのと同じ、古代文字が、いくつか刻まれている。
私は、祭壇の縁に手をかけ、彼の隣へと、よいしょ、と体を持ち上げた。
「どれ、ですか?」
彼のすぐ隣に並び、その窪みを覗き込む。彼との距離が、思った以上に近くて、どきりとした。彼のかすかな息遣いと、制服の上からでも伝わってくる、彼の体温。それを、すぐそばに感じて、私の顔に、熱が集まっていくのが分かった。
「……読めるか?」
「え、ええ……。少々、お待ちください」
私は、慌てて、目の前の文字に意識を集中させた。
そこに刻まれていたのは、短い、一つの文章だった。
「……『汝、大いなる流れに、我が身を委ねんとするならば、その覚悟を、血をもって示せ』……と、あります」
「血をもって、覚悟を示せ……?」
彼が、その言葉を、いぶかしげに繰り返した。
「どうやら、この封印を解くには、術者の血を、ここに垂らす必要があるようです。ですが、危険です。おそらく、ただの血では駄目。血に込められた魔力の質や、その者の覚悟の強さを見極めるタイプの、高度な認証魔法です。もし、資格がない者が行えば、命を吸い取られかねません」
「……なるほどな」
彼は、私の説明を聞くと、静かに頷いた。そして、次の瞬間、彼は、ためらうことなく、自分の指先を、鋭い犬歯で、ぷつりと噛み切った。
「ノアキス様!?」
私が驚いて声を上げるよりも早く、彼の指先から、ぷくりと盛り上がった血の玉が、一滴、また一滴と、封印の窪みへと、正確に滴り落ちていった。
それは、あまりにも、無謀な行為だった。
けれど、彼が、自分の血に、そして、その血に込められた魔力に、絶対的な自信を持っていることの、証明でもあった。
彼の血が、窪みに刻まれた古代文字に触れた、その瞬間。
カチリ、と小さな、しかし、確かな手応えがあった。
そして、これまで固く閉ざされていた円形の蓋が、音もなく、内側へとスライドしていく。
封印は、解かれたのだ。
「……やった」
彼が、安堵の息を漏らした、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…………ッ。
不意に、この広間全体が、地鳴りのような、低い唸りを上げて、激しく揺れ始めた。
それは、地震などではなかった。この遺跡そのものが、内側から、目を覚まそうとしているかのような、生命的な律動。
何かが、おかしい。何かが、来る。
私の本能が、けたたましく、警鐘を鳴らしていた。
「どうした、何が起きた!?」
彼もまた、異変に気づき、祭壇の上から、鋭い視線を、広間全体へと走らせる。
揺れは、どんどん、激しくなっていく。天井から、ぱらぱらと、古い石の粉が、私たちの頭上に降り注いできた。
そして、私たちは、見てしまった。
この広間の壁に、等間隔に並んでいた、あの不気味な獣の顔をかたどった石像。その、空ろだったはずの眼窩に、今、ぼんやりとした、赤い輝きが、一つ、また一つと、灯り始めていたのだ。
それは、まるで、眠っていた獣たちが、一斉に、その瞼を開いたかのようだった。
赤い輝きは、やがて、光の線となって、壁や床を走り始める。その線が向かう先は、ただ一点。
私たちが、この部屋に入ってきた、入り口。その通路へと、全ての輝きが、吸い込まれるようにして、集まっていく。
「まずい! これは、防衛システムだ! 俺たちが、禁忌に触れたことを、感知したんだ!」
彼が、叫ぶように言った。
防衛システム。この古代遺跡を守るために、創設者たちが仕掛けた、最後の番人。
彼の言葉を裏付けるかのように、入り口の通路があった場所で、地響きが、ひときわ大きくなった。
ガコン、ゴゴン、と、重たい岩が、擦れ合い、組み合わさっていくような、不気味な音が、連続して鳴り響く。
壁の石が、床の石が、まるで、生き物のように、その形を変え、一つの場所へと、集まっていく。
それは、巨大な、人型の何かを、形作っていた。
最初に、太い二本の脚が、地面から生えるようにして、形成される。次に、がっしりとした胴体。そして、岩塊をそのままくっつけたような、無骨な両腕。最後に、頭部となるべき場所に、赤い輝きを灯した、一つの巨石が、ゆっくりと、はめ込まれた。
「ゴーレム……!」
彼が、絶望的な響きを帯びた声で、その名を呟いた。
私たちの目の前に、一体の、巨大な石の守護者が、その姿を現したのだ。
その体高は、この広間の天井に届くほどだった。全身が、この遺跡と同じ、古びた石材で構成されている。関節にあたる部分からは、先ほど壁を走っていたのと同じ、不気味な赤い輝きが、漏れ出している。顔と呼べるようなものはなく、ただ、頭部の中央で、一つの赤いモノアイが、ぎろり、と、私たちを睨みつけていた。
その巨体が、一歩、こちらへと、足を踏み出す。
ズゥゥゥン、と、地響きと共に、広間全体が、大きく揺れた。
圧倒的な、質量。そして、威圧感。
それは、私たちがこれまで戦ってきた、どんな魔獣とも、比べ物にならない、絶望的なまでの、力の差を感じさせた。
そして、そのゴーレムは、私たちが、この部屋から脱出するための、唯一の通路を、完全に、塞いでしまっていた。
私たちは、袋のネズミだった。
「くそっ……!」
彼が、舌打ちと共に、祭壇から飛び降りる。そして、ゴーレムに向かって、素早く、攻撃魔法の詠唱を始めた。
「――炎槍!」
彼の手から放たれた、巨大な炎の槍が、轟音と共に、ゴーレムの分厚い胸板へと、突き刺さる。
けれど。
ガンッ、硬い音を立てて、炎の槍はゴーレムの表面で、あっけなく砕け散ってしまった。その石の体には、焦げ跡一つ、ついていない。
魔法が、通じない。
その事実が、冷たい絶望となって、私たちの背筋を駆け下りた。
ゴーレムは、彼の攻撃など、まるで意に介していないかのように、その巨大な腕を、ゆっくりと振り上げた。
そして、私たちめがけて、それを、無慈悲に、振り下ろしてくる。
ゴォッ、と、空気を引き裂くような、凄まじい音。
私たちは、咄嗟に、左右へと飛びのいて、それを回避した。
次の瞬間、私たちがさっきまでいた場所。その石の床がゴーレムの一撃によって、巨大なクレーターのように、粉々に砕け散っていた。
もし、あれが直撃していたら。
想像しただけで、全身の血の気が引いていく。
逃げ場はない。出口は、あの巨神によって塞がれている。
私たちは、この古代の墓所の中で、絶対的な番人を前にして、絶体絶命の窮地に立たされていた。
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