第14話

 僕の部屋は独房になった。

 あの日学校からの帰路で下した決断を僕は忠実に実行に移した。

 翌朝いつもの時間に鳴り響いたスマホのアラームを僕は布団の中から無感動に聞き流した。

 やがて心配した母がドアをノックする音が聞こえてくる。僕は返事をしなかった。


 何度か僕の名前を呼ぶ声がしたがそれもやがて諦めたように遠ざかっていった。

 時間がたって、学校からだろう、スマホが鳴っている気配がした。それもじきに鳴り止んだ。


 僕という人間が社会的に死んだ最初の一日だった。

 それからの日々はまるで濃度の違う灰色の絵の具をただ塗り重ねていくだけのような単調な時間の連続だった。

 僕は部屋の鍵を内側から固く閉ざし外界との接触を完全に断った。

 食事は母がドアの前に置いていくものを家族が寝静まった深夜にこっそりと部屋に運び込むだけ。

 風呂に入ることもなく着替えをすることもなく僕はただベッドの上で横になっているかあるいは壁の一点を虚ろに見つめているかそのどちらかだった。


 時間の感覚は急速に曖昧になっていった。

 カーテンを閉め切ったこの部屋では太陽の運行さえも他人事だ。今が朝なのか夜なのか今日が何曜日なのかそんなことはどうでもよかった。

 僕にとって重要なのはただ一つ僕という存在が誰にも害を及ぼすことなくこの部屋の中で静かに風化していくのを待つことだけだった。


 これは僕が僕自身に課した罰でありそして僕にできる唯一の贖罪の形だった。僕は歩く災害だ。僕の内側にはあの忌まわしい穢れがずしりと重い鉛のように鎮座している。

 僕が外の世界と関わる限りこの穢れは必ずやその瘴気を漏れ出させ新たな悲劇を生み出すだろう。三人目の犠牲者を出してしまったあの日僕はそのことを骨の髄まで理解したのだ。

 だからこの孤独な監禁生活は僕にとって苦痛ではなかった。むしろ安堵感さえあった。


 この部屋の中にいる限り僕はもう誰かを傷つけることはない。

 僕の罪の連鎖はここで断ち切られるのだ。そう思うことで僕はかろうじて精神の均衡を保っていた。

 しかしその脆い平穏もまた僕が思っていたよりもずっと早く崩れ去っていくことになる。

 僕の孤独な贖罪の試みはあまりにも浅はかで自己満足に過ぎなかったのだ。僕という存在から漏れ出す穢れの瘴気はドア一枚隔てたくらいで防げるような生易しいものではなかったらしい。それはゆっくりとしかし確実にこの家全体を汚染し始めていた。


 最初の変化は音だった。

 僕がこの部屋に閉じこもってから一週間ほどが過ぎた頃だろうか。

 ドアの向こう側から聞こえてくる生活音の質がわずかに変わってきたことに僕は気づいた。

 以前は穏やかで規則正しかったはずの家族の営みの音がどこか不協和音を奏でるようになったのだ。


 それは本当に些細なことから始まった。

 リビングから聞こえてくるテレビの音量が以前よりも少しだけ大きい。

 父が帰宅した時の玄関のドアを閉める音がやけに乱暴に聞こえる。母がキッチンで食器を洗う音が時折神経質に甲高い音を立てる。

 気のせいかもしれない。僕がこの静寂に慣れすぎたせいで外部の音に過敏になっているだけだ。僕は当初そう考えようとした。


 だがその不協和音は日を追うごとにその音量を増していった。

 やがてそれは明確な口論の声となって僕の耳に届くようになった。


「だから何度も言ってるだろ!どこに置いたんだ!」


 父の苛立ちを含んだ低い怒鳴り声。


「私だって知りませんよ!自分で管理してくださいっていつも言ってるじゃない!」


 母のヒステリックに尖った声。

 何を言い争っているのかその内容は定かではない。おそらくは本当に些細なことなのだろう。

 鍵の置き場所かあるいは何か重要な書類か。以前の僕の家では考えられないような光景だった。

 僕の両親は決して仲が悪いわけではなかった。むしろ穏やかで互いを尊重し合うごくありふれた夫婦だったはずだ。


 しかし今の彼らはまるで互いの神経を逆撫でするためだけに言葉を発しているかのようだった。

 その口論は一度きりでは終わらなかった。毎晩のようにリビングからは二人の棘のある言葉が飛び交うのが聞こえてくる。

 その声は僕の部屋の分厚いドアを通り抜け僕の心をじわじわと締め上げた。


 僕のせいだ。


 この家の空気をよどませているのは僕なのだ。僕の内側にある穢れがこの家の住人たちの精神を少しずつ蝕み彼らの心から寛容さや思いやりといったものを奪い去っている。

 そしてその代わりに猜疑心や攻撃性といった負の感情を植え付けているのだ。


 僕はベッドの上で体を丸め両手で耳を強く塞いだ。


 聞きたくない。もう何も聞きたくない。

 しかし両親の口論の声はそんな僕の物理的な抵抗をあざ笑うかのように脳の内側に直接こだましてくる。

 自己隔離は無意味だった。僕はただ災厄の発生源を学校からこの家へと移しただけだったのだ。

 そしてその最も身近な標的は僕が誰よりも守りたいと願っていたはずの僕自身の家族だった。


 その事実が僕の心を新たな絶望の底へと突き落とした。僕は自分の無力さを呪った。

 この穢れを制御することも消し去ることもできない。

 僕にできるのはただこの家が少しずつ壊れていく様をこの独房の中から無力なまま見つめ続けることだけだった。


 そんな日々がさらに何日か続いたある夜のことだった。

 その夜もリビングからはいつものように両親の口論が聞こえていた。

 しかしその日の口論はいつもよりも早く終わりやがて家の中は重い沈黙に満たされた。僕はその沈黙にむしろ不吉なものを感じていた。


 嵐の前の静けさ。何かもっと決定的な破局が近づいているようなそんな予感。


 深夜になり喉に耐え難い渇きを覚えて僕はそっとベッドから抜け出した。

 冷蔵庫から水を取り出すためだ。僕は部屋のドアの鍵に手をかけ音を立てないようにゆっくりとそれを回した。

 そしてほんの数センチだけドアを開け廊下の様子を窺った。


 家の中はしいんと静まり返っている。両親はもうそれぞれの寝室で眠りについているのだろう。

 廊下は常夜灯のぼんやりとした明かりに照らされているだけだった。


 僕はそのわずかな隙間からリビングへと続く廊下の奥へと視線を向けた。


 その瞬間僕の体は凍り付いた。

 廊下のちょうど中間あたり。リビングの入り口のすぐ手前。


 そこに母が立っていたのだ。

 彼女は寝間着姿のままぼうっとその場に立ち尽くしている。その背中はどこか小さく頼りなげに見えた。


 何をしているんだこんな時間に。

 僕は息を殺してその様子を見守った。


 母はゆっくりと顔を上げた。

 その視線はリビングへと向かっているのではない。彼女が見つめているのはリビングの入り口のちょうど向かい側にある何もない壁だった。

 その壁の前の空間そこにあるはずのない何かを彼女は見つめている。


 僕には分かった。

 その空間にただよう気配を。

 それは僕がかつて何度も感じたあの濃密で冷たい気配。穢れがそこに集まり形を成そうとしている。


 母は肩を細かく揺らしていた。

 その表情は僕のいる場所からは見えない。

 しかしその全身から放たれる恐怖の波動は痛いほどに僕に伝わってきた。


「……どなたですか」


 母のかすれた声。


「そこに誰かいるんでしょう……?ずっと前から……この家に……」


 彼女は独り言のように呟いている。その声は怯えきっていた。

 やめろ。それ以上は見るな。感じるな。

 僕は心の中で絶叫していた。しかしその声は彼女には届かない。

 母はまるで何かに引かれるかのように一歩前へ踏み出した。そして彼女の視線が捉えている虚空に向かって問いかける。


「あなたなの……?あの子を……私の息子を……おかしくさせたのは……」


 違う。違うんだ母さん。

 おかしくなったのは僕じゃない。

 僕がおかしくさせているんだ。

 この家をあなたたちを。

 母はさらに一歩虚空へと近づこうとした。その時だった。彼女の体がびくりと大きく跳ねた。

 そしてまるでこの世で最も恐ろしいものを見たかのように短い悲鳴を上げその場にへたり込んだ。


「いやっ……!来ないで……!」


 彼女は両腕で自分の顔を覆い必死に何かから身を守ろうとしている。

 その姿は僕が廊下で自分の死の幻影を見た時や事故で死んだ女子生徒の最期の様子と痛々しいほどに重なって見えた。


 母にも見えてしまったのだ。

 あの黒い塊が。

 首を吊った人間の形をしたあのおぞましい何かが。


 もう限界だった。

 僕は静かにドアを閉めて、再び鍵をかけた。そしてドアに背中を預けたままその場にずるずると座り込んだ。


 体の芯から這い上がってくる冷たい何か。それはもはや恐怖というよりも完全な諦念に近い感情だった。


 僕がこの家にいる限り家族は確実に次の犠牲者になる。

 それも一人ずつゆっくりと正気を失い恐怖のどん底で死んでいくことになるだろう。

 最も身近な存在を僕自身の手で最も残酷な方法で壊していくことになる。


 それだけは駄目だ。

 それだけは絶対に避けなければならない。


 僕がこの部屋に引きこもるという選択は結局のところ最悪の選択だったのだ。

 それは贖罪などではなくただの責任逃れであり自己満足に過ぎなかった。穢れを内側に留めておくことなど僕にはできはしない。

 それは僕の存在そのものから絶えず染み出し続けているのだから。


 ならば僕が取るべき行動は一つしかない。

 この穢れの発生源である僕がこの家から物理的に離れること。


 家族からできるだけ遠くへ。

 誰にも迷惑のかからない場所へ。

 僕はこわばった手で顔を覆った。涙はもう出なかった。僕の感情はとっくの昔に枯渇してしまっていた。


 どこへ行けばいい?


 この世界に僕の安息の地などどこにもありはしない。

 しかしそれでも僕は行かなければならない。

 このままここに留まることは僕の家族にとっての死刑宣告に等しいのだから。


 僕は立ち上がった。

 そして窓の外を見た。厚いカーテンの隙間から見える空は夜の深い藍色に染まっている。


 今しかない。

 家族が寝静まっているこの瞬間に。

 僕はスマホと財布だけを持って出ていくことにした。そうだ、僕という人間の痕跡はこの家に残すべきではない。


 僕はもう一度ドアの前に立った。

 さようなら。

 心の中で僕は両親に別れを告げた。


 そして僕は二度と戻らない覚悟でこの独房の扉を開けた。

 僕を待っているのがどのような地獄であろうとも僕はもう振り返らない。

 それが僕にできる最後のそして唯一の家族への愛情の示し方なのだから。

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