第13話

 二人目の死は、決定的なものだった。


 これまで僕が体験してきた恐怖は、あくまで僕個人の内的な地獄だった。視界に現れる黒い塊、カバンの中の生首、勝手に動く手と口。それらは確かに僕の精神を蝕んだが、その被害は僕一人に留まっていた。

 しかし今は違う。

 僕の内側に封じ込められた穢れは、もはや僕という器の中に収まりきらずに瘴気となって外部に漏れ出し、他者を巻き込み始めている。そして僕と直接的な因果関係を持つ人間を、順番に死へと追いやっている。


 途方もない罪悪感が、まるで物理的な質量を持った津波のように僕の心を飲み込んでいく。

 僕があの資料準備室に行かなければ。僕があの死の瞬間に触れさえしなければ。こんなことにはならなかったのかもしれない。


 この事態を、セイラは予測していたのだろうか。

 彼女は穢れが俺から出ないように見ている、といっていた。

 だから、予測はできていたのだろう。


 しかし、この事態になってもセイラという存在を見ることはない。

 彼女は嘘をついていたのだ。


 封印をできていない。そして、穢れが漏れ出ても対処する、という言葉。


 問題は解決などしていなかった。

 それどころか事態は僕一人の内的な地獄から、他者を巻き込み死に至らしめるという最悪のフェーズへと移行してしまったのだ。


 そしてその中心にいるのは僕だ。

 僕はこの罪を背負って生きていかなければならない。


 これからまた誰かが死ぬのかもしれない。

 僕のせいで。

 僕という器から漏れ出した穢れによって。

 その想像をしただけで全身の血の気が引いていくのが分かった。


 もうどうすることもできない。

 僕にはこの穢れを制御することも消し去ることもできないのだから。

 僕はただ次の悲劇が起きるのを、なすすべもなく待つことしかできない。


 僕の平穏な日常はもう二度と戻ってはこない。


 僕の目の前にはただどこまでも続く暗く冷たい道だけが広がっていた。

 その道は僕自身の、そして僕の周りの人々の死体で埋め尽くされていくのかもしれない。


 僕は膝を抱え小さく体を丸めた。

 誰か助けてくれ。

 その声にならない叫びはもはや僕の口から出ることはなかった。


 なぜなら僕自身がこの悲劇の元凶なのだから。

 僕に助けを求める資格などありはしないのだ。



 二人目の死は学校という閉ざされた共同体の空気を決定的に変質させた。


 最初の女子生徒の死が水面に投じられた石だとするならば二人目のそれはその水面下で静かに成長していた悪性の腫瘍がついに破裂しその毒を水全域に撒き散らしたようなものだった。

 もはや誰もが口には出さないまでも心の奥底で同じ結論にたどり着いていた。これはただの偶然の連鎖ではないと。


 『呪い』という時代がかった単語が教室の隅々で現実的な響きを伴って囁かれるようになった。

 それはもはや怪談話に興じるような軽薄なものではなかった。自分たちのすぐ隣で起きている紛れもない現実として生徒たちの間に深く冷たい根を下ろし始めていたのだ。

 根拠のない噂は恐怖という名の養分を吸って瞬く間に増殖しやがて猜疑心という名の粘着質な蔓となって互いの心に絡みついていく。誰が次にその見えない手に捕らえられるのか。

 その恐怖が教室の空気を見えないくらい細かなガラスの破片で満たしているかのようだった。


 息をするだけで肺の内側がちりちりと痛むようなそんな緊張感。


 僕はその全ての元凶だった。

 僕という存在が歩く災害そのものなのだ。

 あの交通事故の真相を知ってしまった日からその認識は僕の中で揺るぎない事実となっていた。


 桜木セイラによって僕の内側に封じ込められたはずの穢れ。その封印は不完全だった。僕という欠陥だらけの器のわずかな罅からそれは瘴気となって漏れ出し最初の少女と因縁のあった人間を次の標的として選んだ。

 僕が彼女を殺したのだ。間接的にしかし確実に。


 その途方もない罪の意識は僕の精神を内側から静かにしかし確実に蝕んでいた。

 僕はもはや他者と関わることを許されない存在だった。僕が誰かと視線を交わすだけでその人間を不幸の淵へと引きずり込んでしまうかもしれない。

 僕が誰かに言葉をかけるだけでその声が死への誘い水となってしまうかもしれない。


 だから僕は決めた。他者とのあらゆる接触を断つ。それが僕にできる唯一のそしてあまりにも無力な贖罪の形だった。


 僕は学校という人間が密集する空間で息を殺して生きる幽霊になった。

 廊下を歩く時は常に壁際を選び視線は自分のつま先だけに固定する。誰かの話し声が聞こえればその集団が通り過ぎるまで近くの物陰でやり過ごした。

 教室では自分の席から一歩も動かずただひたすらに気配を消すことだけに全神経を集中させた。

 まるで僕の周囲にだけ見えない分厚い壁が存在しているかのように。僕は自ら望んでその壁の内側に閉じこもったのだ。


 しかしこの日常はいつまで続くのだろう。僕という存在から漏れ出すこの穢れの瘴気はいつまた次の犠牲者を見つけ出すのだろう。

 その答えの出ない問いが僕の心を絶えず締め付け続ける。


 そんな日々が数日続いたある日の放課後のことだった。


 その日の最後の授業が終わるチャイムが鳴り僕はいつも通り誰よりも早く席を立った。


 一刻も早くこの息の詰まる教室から抜け出したかった。僕はカバンを肩にかけると俯いたまま足早に教室の扉へと向かった。

 しかしその日に限って廊下は帰宅を急ぐ生徒たちでごった返していた。

 普段なら人の波が引くまで教室で待機するところだがその時の僕には一秒でも長くこの校舎に留まることが耐え難かったのだ。僕は人々の間を慎重に進んだ。誰の体にも触れないように。誰の視界にも入らないように。願わくば人に呪いが移らないように。


 階段にさしかかった時だった。

 下へと向かう人の流れがそこで滞り一瞬だけ僕の体が前の生徒の背中に押し付けられる形になった。

 僕は慌てて身を引こうとしたが後ろからも人の波が押し寄せてくる。


「あっ……!」


 バランスを崩した僕の右肩がすぐ隣にいた小柄な生徒の腕に強く当たってしまった。

 それは本当に一瞬の出来事だった。


 しかし僕の体はまるで氷水を浴びせられたかのように硬直した。


 やってしまった。

 接触してしまった。


 僕はゆっくりと顔を上げた。僕の肩が当たったのはおそらく一年生だろう小柄な男子生徒だった。

 彼は突然の衝撃に少し驚いたような顔をしていたが僕が会釈するよりも早く人の流れに押し流されるようにして階段の下へと消えていった。


 後に残されたのは僕とそして僕の内側で警鐘のように鳴り響く不吉な予感だけだった。

 大丈夫だ。きっと大丈夫だ。ただ肩が触れただけじゃないか。それだけで何かが起きるはずがない。僕は必死に自分にそう言い聞かせた。しかしその言葉はなんの慰めにもならなかった。僕の右肩に残るわずかな接触の感触がまるで取り返しのつかない罪の刻印のように感じられてならなかった。


 その日から僕の心は常にその下級生のことで占められるようになった。

 校内で彼に似た背格好の生徒を見かけるたびに僕は息を止めた。彼が無事であることを確認するまで僕の心は一瞬たりとも休まらなかった。

 僕のこの行為は彼を心配しているというよりもむしろ僕自身が犯した罪の結果がいつ現れるのかを監視する加害者のそれに近かったのかもしれない。


 そしてその日はあまりにも唐突にやってきた。

 あの接触から三日後の朝のことだ。

 僕が昇降口で靴を履き替えていると周囲の生徒たちのひそひそ話が耳に入ってきた。


「おい聞いたか?またあったらしいぞ」

「今度は一年だって」

「マジかよ……」


 僕はその場で凍り付いた。全身の血が急速に温度を失っていくのが分かった。


「なんかさっき救急車来てたよな」

「階段から落ちたんだって」

「でもさ普通に考えてあの高さから落ちただけで死ぬか?」

「分かんない。でもなんか変だよな。あいつ朝来た時は普通に元気だったって同じクラスのやつが言ってたし」

「なんか足を踏み外したとかじゃなくてさ……自分で飛び降りたみたいに見えたって言ってるやつもいるんだよ」


 自分で飛び降りた。

 その言葉が僕の頭の中で致命的な意味を結んだ。


 僕はもうそれ以上そこに立っていることができなかった。ふらつく足で自分の教室へと向かう。

 廊下の途中例の階段の前には数人の教師が立ち生徒たちが近づかないように規制線を張っていた。

 その床にはまだ何か生々しい跡が残っているように見えた。僕にはそれを直視する勇気がなかった。


 教室に入るとそこはこれまでとは比較にならないほどの重く沈んだ空気に支配されていた。

 最初の自殺の後のような興奮や好奇心はない。二人目の事故の後のようなざわめきもない。ただ静かで底なしの恐怖だけがそこにあった。

 誰もが口を固く結び自分の身にいつそれが降りかかるのかと怯えている。


 三人目の犠牲者。

 僕のせいだ。

 僕があの時あそこで彼に触れてしまったから。


 僕という器から漏れ出した穢れが彼に取り憑き彼にありえない幻覚を見せそして自ら階段を飛び降りるように仕向けたのだ。

 交通事故で死んだあの女子生徒と全く同じように。


 僕の心が音を立てて砕け散っていくのが分かった。

 これまで僕が必死に保とうとしてきたなけなしの理性も自分を騙し続けてきた偽りの平穏もその全てがこの冷酷な事実の前に粉々に打ち砕かれた。


 もう駄目だ。

 僕がこの学校にいる限りこの社会の中にいる限り悲劇は繰り返される。僕の存在そのものが呪いそのものなのだ。僕が人間社会の中にいること自体が許されない罪なのだ。

 僕にはもう選択肢は残されていなかった。

 これ以上の犠牲者を出すわけにはいかない。


 そのためには僕がこの世界から完全に姿を消すしかない。


 死ぬことではない。死んだところでこの穢れがどうなるかは分からない。

 僕が選ぶべき道は生きながらにして社会から完全に隔離されること。誰とも関わらず誰の視界にも入らずただ一人息を潜めてこの罪を背負い続けること。


 その日、僕はずっと窓の外の空を眺めていた。灰色に塗りつぶされた僕の未来のようにどこまでも単調で救いのない空に見えた。


 最後のチャイムが鳴った時僕はいつもとは違いすぐには席を立たなかった。

 周囲の生徒たちが帰り支度を整え教室から一人また一人と去っていく。

 やがて教室には僕一人だけが残された。


 夕日が差し込み僕の机の上に長い影を落としている。

 僕はゆっくりと立ち上がり自分の机と椅子を丁寧に整えた。教科書やノートは全てカバンの中にしまった。机の上には何も残らなかった。それはまるで僕という人間がここに存在したという痕跡が消えていくかのようだった。


 僕は静かに教室を出た。

 誰もいない廊下を歩く。

 階段を下りる。

 昇降口で靴を履き替える。

 その全てが僕にとって最後の儀式のように感じられた。


 校門を出た時僕は一度だけ振り返った。

 夕日に染まる校舎はまるで巨大な墓石のように見えた。

 僕はもう二度とこの門をくぐることはないだろう。

 僕は校舎に背を向け自分の家へと続く道を歩き始めた。しかしそれはいつもの帰路ではなかった。


 僕がこれから向かうのは僕自身のための独房なのだ。

 自宅に着くと僕は誰にも顔を合わせないようにまっすぐ自分の部屋へと向かった。

 ドアを閉めそして内側から鍵をかけた。カチリというその小さな金属音が僕と外の世界とを隔てる断頭台の刃が落ちる音のように聞こえた。


 僕はベッドに倒れ込み天井を眺めた。


 明日から僕は学校へ行くことはない。


 もう二度とこの家から出ることもないだろう。


 これが僕にできる唯一の贖罪。

 僕の人間としての社会的な死。

 そのどうしようもない事実が僕の心を完全な無で満たしていった。


 もう何も感じることはなかった。悲しみも罪悪感も恐怖も。その全てが遠い世界の出来事のように感じられた。

 僕はただ静かに目を閉じた。

 僕の長くて短い日常は、今日、この瞬間完全に終わりを告げたのだ。

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