第11話

 もうどうでもよかった。


 公園のベンチに座り込んだまま、僕は夜空を見上げていた。雲が月を隠し、世界はより一層の暗闇に落ちていた。

 桜木セイラが姿を消してからどれくらいの時間が経ったのか、もはや分からない。時間という概念さえも、僕にとってはどうでもいいことになっていた。


 彼女が告げた言葉が頭の中で反響している。


『始まりの場所へ行きなさい』


 資料準備室。あの全てが始まった忌まわしい場所。


 正直なところ、そこへ行きたいとは思わない。むしろ、二度と近づきたくない場所だった。しかし、他に選択肢があるだろうか。僕はもう袋小路に追い込まれているのだ。セイラが救世主なのか、それとも僕の狂気が生み出した幻なのか、それさえも判然としない。だが、彼女の言葉に従う以外に、この状況を打開する道は見当たらなかった。


 僕はゆっくりとベンチから立ち上がった。体が重い。足を一歩前に動かすことすら、意識的な努力が必要だった。


 それでも僕は歩き始めた。セイラの命令に従うためではない。

 もうこれ以上この苦しみを引きずり続けるのに疲れ果てたからだ。どんな結末が待っていようと、それで終わりになるのなら、それでもいい。


 夜の住宅街を歩きながら、僕は自分の足音だけを聞いていた。

 こつ、こつ、という単調なリズムが、この静寂に満ちた世界で唯一の音楽のように響いていた。

 今、ある周囲の景色の全ては、僕の意識の表面を滑り抜けていくだけで、何の意味も持たない背景でしかなかった。


 いや、意識的に僕はそうしていたのかもしれない。

 何せ——セイラと同種かもしれない気配の存在、その残滓について、何も変わっていないのだから。


 すべてを無視する。


 そして、やがて見慣れた校門が闇の中に浮かび上がってきた。

 昼間は生徒たちで賑わう場所も、今は深い静寂に落ちていた。


 校門にある鉄の門がわずかに開いているのを見て、僕は苦い笑いを漏らした。


 そうだ、それは僕を呼んでいる。


 僕は何のためらいもなくその隙間をすり抜けた。もはや不法侵入だなんて考える余裕もない。

 そういった次元を超えていた、だから校舎に向かって歩を進める間も、自分が何をしているのかという疑問さえ湧いてこなかった。


 昇降口のガラスドアは施錠されていなかった。内側から押し開けると、冷たく澱んだ空気が流れ出してきた。

 昼間の生徒たちの喧騒が嘘のように、そこには完全な死の静寂が支配していた。


 僕は廊下を歩き、階段を上った。


 自分の足音だけが規則正しく響いている。その音が、この静まり返った空間で僕という存在の最後の証明のように聞こえた。


 二階の廊下に出ると、月明かりが窓から差し込んでいる。青白い光が床に幾何学的な模様を描き出していた。

 僕はその光と影の境界を一つずつ踏み越えながら、廊下の奥へと進んでいく。


 そして僕はたどり着いた。あの忌まわしい全ての始まりの場所に。


『資料準備室』


 古びたプレートが扉に取り付けられている。


 普段は固く閉ざされているはずのこの部屋の扉が、またわずかに開いていた。

 僕は一瞬だけためらった。まだ引き返すことはできる。


 だが、引き返してどうするというのだろう。この苦しみが終わることはないのだ。

 僕はゆっくりと右手を上げ、ドアノブに触れた。冷たい金属の感触が指先に伝わる。


 深く息を吸い込んでから、その扉を内側へと押し開けた。


 瞬間、流れ出してきたのは匂いでも音でもなかった。

 それはもっと根源的な何か。存在そのものを希薄にさせる力だった。

 空気が質量を持ったかのように僕の体に重くのしかかってくる。呼吸をすると、肺の中の普通の空気がこの部屋の虚無と入れ替わっていくような感覚があった。


 僕は一歩、その部屋の中へと足を踏み入れた。


 完全な暗闇が僕を包み込む。窓がないのか、外の月光も届かない。けれども僕にはその部屋の様子がはっきりと分かった。壁際に積み上げられた段ボール箱、打ち捨てられた古い机や椅子。長年誰も使っていない物置の光景は、僕が以前見た時と何も変わっていない。


 だが部屋の中央にあるものだけは違っていた。


 そこにあるのは、僕が最初に見たような首を吊った人型の影ではなかった。それはもっと理解不能で冒涜的な何か。

 具体的な形を持たないそれは、あえて表現するならば空間そのものに開いた穴だった。その一点だけが周囲の闇よりもさらに深く、絶対的な虚無の色をしている。光も音も物質も、あらゆるものを吸い込む特異点のような存在。


 そしてその虚無の中心から、絶えず何かが発信され続けていた。

 それは音ではない。声でもない。映像でもない。


『死』


 死という現象のありとあらゆる断片が、そこから無限にループ再生され、この部屋の空間そのものを満たしていた。

 きいという古い木製の椅子が軋む音。ごとりとその椅子が床に倒れる音。ぶちりというロープが張り詰められ、首の骨が砕ける鈍い音。ひっという最後の息が漏れる短い音。

 それらの音の情報が、僕の鼓膜を通さずに直接脳の聴覚野に叩きつけられる。


 そして感情の情報。


 もう誰も信じられないという絶対的な孤独。誰も助けてくれないという底なしの絶望。死ぬことへの恐怖よりも、生き続けることへの苦痛が上回ってしまったあの瞬間の無感覚。

 それらの感情の奔流が僕の心を直接洗い、僕自身の感情と境界なく入れ替わっていく。

 もはやそこには、憎しみも悲しみも残されていなかった。あの自殺した少女が少女であった頃の人格は完全に消え失せ、後に残されたのはただ死の瞬間の情報だけを延々と反復再生し続ける、無意味な現象。


 それは個人の魂などではなかった。純粋な虚無の権化。近づく者の正気や存在意義を根こそぎ吸い上げて、自らの燃料とする悪性の現象。

 僕がこの部屋にいるだけで、僕という存在が少しずつ解体されていくのが分かった。


 僕は誰だ?

 なぜここにいる?

 生きているとはどういうことだ?

 死ぬとはどういうことだ?


 僕を構成していたあらゆる概念、記憶、意味。その全てがこの虚無の中に溶け出し、吸い取られていく。僕の人格がぼやけて、この部屋の闇と一体化していくような感覚。


 ああ、これが終わりなのか。

 僕はこのまま意味のない情報の塊に取り込まれ、僕自身もまた意味を失ったただの情報として、永遠にこの部屋をさまよい続けることになるのか。


 それでもいいかもしれない。もう何も考えなくていい。何も感じなくていい。ただ無に還るだけだ。

 僕の意識が完全にその虚無に飲み込まれようとした、その寸前だった。


 すと。

 僕のすぐ隣に、何の予兆もなく気配が現れた。音もなく、空気の動きもなく。まるで最初からそこにいたかのように自然に。


 僕はゆっくりとそちらに視線を向けた。

 そこに立っていたのは桜木セイラだった。

 白いセーラー服がこの絶対的な闇の中で、ぼうっと燐光を放つように白く浮かび上がっている。


 彼女は部屋の中央にある、死の塊には一瞥もくれなかった。ただ僕の顔をじっと見つめている。

 相変わらず美しく、慈愛に満ちているように見えた。その微笑みは母親が愛しい子供を見つめるかのような温かさ。


「ここまで濃くなっていましたか」


 彼女の声は以前と同じ鈴のような美しさを持っていた。


「あなたはあの日に死そのものに触れてしまった。だから見えるようになったのです。本来人間が見るべきではないものが」


 その言葉は不思議な説得力をもって、僕の希薄になった意識にしみこんでいった。


 僕に起きていた一連の現象。それは呪いや憑依といった単純なものではない。いうならば、僕自身の認識能力が根本的に変質してしまった結果なのだ。普通のラジオが突然別の周波数を受信できるようになってしまったように。僕の意識が、あの日この場所で死という現象に触れた衝撃で変質し同調するようになったのだ。


「もはや、これは祓うことはできません」


 セイラは続けた。その視線は初めて部屋の中央の『死』へと向けられる。その時、僕は気づいた。彼女が『死』を見つめる眼差しに、恐怖も嫌悪もないことに。それは完全に無感情な観察をする目だった。慈愛に満ちた表情を浮かべたまま、その瞳だけが機械のように冷たく『死』を値踏みしている。


「これはもはや個人の魂などではありません。土地に深く刻み込まれてしまった傷跡のようなもの。今の私にできることは、あなたをこの『死』から切り離すことだけです」


 その説明は論理的で分かりやすかった。

 そう言うと彼女は、白く細い右手をゆっくりと僕の方へと伸ばした。その動作は優雅で、まるで聖母が病人を癒そうとするかのような神々しささえ感じられた。


 その指先が僕の額にそっと触れる。ひやりとした清涼感のある冷たさ。

 それはこれまでと同じ感触だったが、ただ、その奥に潜むものはこれまでとは明らかに違っていた。

 単純な温度などでは決してない。これはまるで氷の下に深い深い冷水が流れているような、底知れない冷たさがあるように感じられた。


「閉じなさい」


 セイラの唇が動いた。


 その言葉と同時に、彼女の指先から何か見えない力が僕の内側へと流れ込んできた。そして僕には分かった。僕と部屋の中央にあるあの『死』との間に、壁が形成されていくことが。それは物理的な壁ではない。もっと概念的な境界線。僕という世界とあの『死』という世界を隔てる絶対的な断絶。


 今まで僕の精神を直接蝕んでいたあの死の情報の奔流が、すうっと遠のいていく。ロープの軋む音も、絶望の感情も、全てがその壁の向こう側へと押しやられていく。


 しかし、それは消えてなくなったわけではない。行き場を失ったその『死』は、再び僕の内側へと逆流してきた。僕という容器の中へと無理やり押し込められていく。

 ずしりと。僕の魂とでもいうべきものが重くなった。僕の身体、いや存在そのものが重く感じられた。一方で、先ほどまでの自分という存在が消えていくかのような感覚はなくなっていた。


「これで外部へ漏れ出すことは、おそらく無いでしょう。全て、あなたの中に封じました」


 セイラは静かにそう告げると、僕の額から指を離した。その表情には相変わらず慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいた。

 彼女が行っていることとの乖離が激しく感じられた。


「……君は、君は一体何者なんだ」


 セイラはその問いに対して、ほほ笑むような表情を向けてきた。


「私は、桜木セイラだとお話ししましたが?」


 彼女は以前と同じようにそう答えた。その声は相変わらず美しく優しい響きを持っていた。

 ただ、それがもはや今の僕には理解できなくなっていた。


「いや、そういうことじゃない。君の正体はなんなんだ?」


 僕の問いに、セイラはほんの一瞬だけ、その美しい顔に困ったような表情を浮かべた。

 それは純真な子供に質問された大人がどう答えていいものか、と思案するかのような。


「本当の正体?私は私ですが……あなたは何を求めているのでしょう」


 彼女の口調は、まるで子供の素朴な疑問に答える優しい大人だった。

 しかし、その言葉の端々から、僕は気づいてしまった。

 根本的に彼女は何かが違う存在なのだと。


「君は僕を助けてくれたんじゃないのか?この地獄から救い出すために現れたんじゃないのか?」

「助ける……」


 セイラはその言葉を繰り返した。

 彼女の顔には相変わらず母性的な微笑みが浮かんでいた。


「私は適切な処置を施しました。『器』であるあなたが壊れないように」


『器』――その言葉が再び僕の耳に突き刺さった。


「器って何だ。」

「器です。だって、あなたは文字通り器ではありませんか」


 セイラは当然のことを言うかのように答えた。その表情は愛おしい子供を諭す母親のようで、声も温かい。


「あなたの中には、あの『死』が封じ込められている。」


 慈愛に満ちた表情で、さも当然のように彼女は言葉を続けた。


「僕は…僕は…」

「重要なのは、あなたが無事であること。穢れが出てきていないこと。それは私があなたを助けた、と言えませんか?」


 彼女の顔に浮かぶ微笑みは変わらず優しく美しい。


「君にとって僕は……ただの物なのか」

「私は事実を話しています。少なくとも、あなたは物ではないでしょう。」


 ずれた答えが発せられる。

 セイラは何の悪気もなく、むしろ親切に説明してくれているかのような口調で彼女はどこか非人間的な論理を語っている。


「あなたという器から穢れが溢れることがないように、これからも私はあなたを見ています。これからもよろしくお願いしますね」


 何も変わらない調子で彼女は僕に優しく語り掛けてくる。

 この状況になって、僕はようやく全てを理解した。


 彼女の慈愛に満ちた微笑み。僕の涙を拭ってくれた優しい指先。これらは彼女という非人間的な存在の特徴なのだ。

 いわば、人間でない存在が、人間を模倣している。


 根本的に彼女は理解できない存在。


 そして今も、彼女は慈愛に満ちた表情でそれを説明している。まるで愛する人に真実を教えてあげているかのような、温かい微笑みを浮かべて。


 …ということは、あの地獄の日々、それを生み出していた『死』のような穢れや、セイラという存在が、僕の妄想ではなかったことを示していた。

 これらは間違いなく現実として存在した。

 ただ、それはある意味、僕の妄想であったほうが僕は救われていたのかもしれない、という絶望的な現実に気が付いた。


「……そうか」


 僕はうつろな声で呟いた。


「君は最初から、僕を騙していたんだ」

「騙す?」


 セイラは本当に理解できないといった様子だった。

 その表情には純粋な困惑が浮かんでいた。


「私はあなたを助けました。それは間違いないことだと思いますが?」


 彼女の声は相変わらず優しく、まるで混乱している子供を落ち着かせようとする大人のようだった。

 しかし、それすら今の僕の感情をどこか逆なでする。


「私はこれで失礼します。穢れが溢れ出る場合、また処置を行わなければなりません。その時は、またよろしくお願いします」


 最後に、彼女は僕に向かって花のような微笑みを向けた。

 セイラの白いセーラー服の姿は、一瞬のうちに、掻き消えた。

 まるで最初からそこにいなかったかのように。


 後に残されたのは僕一人。静寂が戻ってきた資料準備室。

 僕はその場にしばらく立ち尽くしていた。体は嘘のように軽くなっていた。頭もはっきりとしている。あの自分を蝕んでいた異常な感覚は綺麗に消え去っている。


 一見すれば、全てが解決したかのようだった。


 しかし僕は知っている。何も終わってなどいない。

 本当の地獄は、僕の内側に封じ込められたのだ。いつまたこの器から溢れ出すとも分からない時限爆弾を抱えて。僕はこれから生きていかなければならない。


 しかも、僕は監視されることだろう。

 あの、桜木セイラという、人ならざる存在によって。


 これは僕の妄想なんかじゃなかった。

 その途方もない事実に、僕の心は再び静かな絶望に満たされていった。

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