第10話
自殺した少女の記憶を追体験した衝撃で、僕は心身ともに疲弊しきっていた。
廊下の蛍光灯が作り出す光の孤島の中を、僕はふらつく足取りで歩いた。頭の中にはまだあの少女の絶望的な感情の残滓がこびりついている。彼女の孤独、屈辱、そして最後の無感覚。それらが僕自身の記憶と見分けがつかないほど鮮明に刻み込まれていた。
階段を下りる足音が夜の静寂に異様に大きく響く。一歩踏み出すたびに、あの資料準備室で椅子を蹴った瞬間の感覚が僕の足裏に蘇ってくる。まるで僕自身があの椅子から身を投げ出したかのような錯覚に陥る。
昇降口で靴を履き替える時も、僕の指先はまだあの太いロープの感触を覚えていた。首にかけられたその重さ、締め付けられる感覚。全て彼女の体験として追体験したはずなのに、僕の肉体にもその記憶が深く刻み込まれている。
校門を出て、夜の闇に完全に飲み込まれた住宅街へと足を向ける。街灯の弱々しい光が点々と道を照らしているが、その光さえも今の僕には冷たく感じられた。
なぜ僕なんだ。
その答えのない問いが僕の頭の中を何度も何度も反響する。
僕は彼女をいじめていたわけではない。その輪の中にいたわけでもそれを黙認する傍観者でさえなかった。僕はただ彼女の存在をその他大勢のクラスメイトの一人として風景の一部としてしか認識していなかった。ただ無関心だった。それだけだ。
その無関心という罪が僕をこの地獄に引きずり込んだとでもいうのだろうか。あまりにも罰が重すぎるのではないか。因果応報というにはあまりにもその釣り合いが取れていない。
明確な理由のないこの理不尽な恐怖。原因と結果の繋がりが見えないというこの事実そのものが何よりも僕の正気を蝕んでいく。もし僕が彼女を直接傷つけていたのならまだ理解できたかもしれない。これはその報いなのだと自分を納得させることもできただろう。しかしそこには何もない。空っぽだ。僕と彼女の間には意味のある関係性など何一つ存在しなかったのだ。
だからこそ怖い。
仮に原因が僕の心の内の狂気にあったとしても、少なくとも、これは僕の理解の及ぶ法則ではない。
狂気。狂気だといえた。
見慣れたはずの住宅街の街灯が今夜はまるで死んだ魚の目のように冷たく虚ろな光を放っているように見える。
通り過ぎる家々の窓からは温かい明かりが漏れているが、それらの光は僕のいる世界とは全く別の次元のもののように感じられた。
やがて、自宅が見えてきた。しかし僕の足は自然とその前を素通りしていく。
あのカーテンを閉め切った息の詰まるような部屋で一人きりでこの他人の絶望の記憶を抱えて時間を過ごすと頭が狂いそうになる。
僕は自宅を通り過ぎ、その先にある小さな公園へと吸い寄せられるように足を進めた。
そこは子供向けの錆びついたブランコと滑り台がぽつんと置かれているだけの寂れた場所だ。夜の闇の中でそれらの遊具は不気味な骨組みのように浮かび上がっていた。
その隅にあるベンチに僕は崩れるようにして腰を下ろした。
これからどうすればいい。
この終わりのない苦しみをいつまで僕は耐えなければならないのか。
もういっそのこと僕も。
そんな考えが頭の片隅をよぎったその時だった。
ふわりと。
あの清らかでどこか懐かしい甘い香りが僕の鼻腔をくすぐった。
はっとして顔を上げる。
僕が座るベンチのすぐ目の前に。
彼女が立っていた。
白いセーラー服。風もないのにさらさらと流れる長い黒髪。透き通るような陶器の肌。
僕が唯一希望を見出したあの白皙の少女だった。
彼女は僕を見つめると、あの時と同じように慈愛に満ちた優しい微笑みを浮かべた。その大きな切れ長の瞳には深い慈愛のようなものがたたえられ、僕の混乱と苦痛を全て受け止めてくれるかのような温かい光が宿っている。
僕の心の奥底で、また小さな疑念が頭をもたげた。
彼女もまた、僕にしか見えない存在なのではないか。
僕の精神が救いを求めるあまりに作り出してしまった都合のいい幻。
あの黒い塊と同種の、僕の狂気が生み出した産物なのではないか。
しかしその疑念は、彼女の圧倒的な存在感の前にかき消されていく。そして同時に、僕の心にある切ない願いが頭をもたげてくる。たとえ彼女が幻覚だったとしても構わない。たとえ彼女があの黒い塊と同じ種類の存在だったとしても構わない。この絶望的な状況で、僕に慈愛の眼差しを向けてくれる唯一の存在に、僕は縋りつきたかった。
「また会えましたね」
彼女の鈴が鳴るような美しい声が、夜の静寂を優しく包み込んだ。その音色は以前と変わらず、まるで傷ついた子供をあやす母親のような優しさに満ちていた。
「……君は」
僕の口からかすれた声で言葉が漏れた。助けてくれ。助けてくれるんだろう。あなたは僕をこの悪夢から救い出してくれるためにまた現れてくれたんだろう。
僕は祈るような気持ちで彼女の顔を見上げた。彼女こそが僕の救世主だ。そう信じたかった。いや、そう信じなければもう僕には何も残されていなかった。
彼女はそんな僕を見てもう一度優しく微笑んだ。そしてゆっくりと僕の前にしゃがみ込むと、あの時と同じようにそっと僕の頬に手を伸ばした。
その指先は少しだけひんやりとしていた。しかしそれは僕が以前感じたのと同じ、心地よい清涼感のある冷たさだった。彼女の指が僕の涙の跡を優しく拭う。そのほんのわずかな接触だけで僕の体から余計な力がすうっと抜けていくのが分かった。
「あなたはとても頑張りましたね」
彼女の言葉は母親のような温かさに満ちていた。
「でも、もうこれ以上は危険です」
彼女の表情は相変わらず慈愛に満ちている。
「あなたという器が穢れで満ちようとしています」
けがれ。うつわ。
彼女の表情は変わらず優しく微笑んでいるのに、その口から出る言葉だけが妙に生々しく聞こえた。
それはまるで医師が患者の病状を客観的に診断しているかのような、感情と完全に切り離された分析的な口調に聞こえた。
『器』『穢れ』――それは僕という人間を、一個の人格を持った存在としてではなく、何かを入れるための容れ物として認識していることを意味していた。
その非人間的な認識が、これほどまでに慈愛に満ちた表情で語られるという、違和感。
「このままでは器が溢れてしまう。そうなれば……」
彼女は少し困ったような表情を浮かべた。
「よくないことが起きるでしょう」
彼女は僕の表情を見ても、変わらず優しく微笑み続けていた。
僕は彼女に縋りつきたかった。
この絶望的な状況で、彼女だけが僕に温かい言葉をかけてくれる唯一の存在なのだから。
「始まりの場所へ行きなさい」
彼女は慈愛に満ちた表情のままで、自然な口調でそれを提示した。
始まりの場所。
資料準備室。
そこへ行けというのか?
正直、その意味が理解できなかった。
「……わからない」
僕はかすれた声で呟いた。
「君は僕を助けてくれるんじゃないのか?」
彼女は首をかしげるようにして、まるで純粋な子供のような無垢な表情を浮かべた。
しかしその無垢さには、人間の子供が持つような愛らしさはなかった。もっと根本的で、もっと超越的な無垢さがあるような気がした。
「もちろんです。だからこそ、最も良い方法をお教えしているのです」
その言葉には嘘偽りがないように聞こえた。
だから、彼女の優しさは本物だ、きっと。おそらく、いやそうでなければ――ならない。
「これから、僕はどうなるんだ?」
僕の問いに、彼女の美しい顔には一瞬だけ、悲しみの表情が浮かんでいた。
その悲しみには、僕の運命を哀れむものというよりも、理解の遅い子供に対する大人の困惑のようなものに感じられた。
「あなたの役目は穢れをその身に留めておくこと。それができないのであれば、他の選択肢を検討しなければなりません」
彼女の言葉。根底にある違和感を僕は無視した。
救世主。この不条理な違和感を僕はすべてを無視する。
会話をしないと、闇夜の公園が沈黙という形で浮かんできていた。
「君は……君は一体何者なんだ?せめて、名前を教えてくれないか?」
辛うじて、僕はそれだけ尋ねた。
「私の名前ですか?名を聞いても意味がないと思いますが…」
彼女は少し驚いたような表情を見せた。
「いいや、そんなことはない。」
「桜木セイラと申します」
桜木セイラ。
その名前は美しい響きを持っていたが、彼女の口からそれが発せられた時、なぜかとても軽やかに聞こえた。
まるで今その場で適当に選んだ記号のような、実体のない軽さに聞こえた。
「セイラ……」
僕がその名前を反芻すると、彼女は満足そうに頷いた。
「はい。私はあなたのことを最良の形で解決してあげたいのです」
そう語るセイラは、花のような笑顔を浮かべていた。
「必ず、あなたのためになります。信じてくださいね」
セイラは立ち上がると、僕に向かって最後の微笑みを向けた。
それは心から僕を愛おしく思っているかのような、母性に満ちた表情だった。
ふと彼女の姿が揺らいだ。まるで陽炎のようにその輪郭が一瞬だけ透けて向こう側の公園の景色が見えたような気がした。
そして今度こそ本当に、闇の中へと姿を消していった。
後に残されたのは僕一人。
そして彼女が残していった複雑な感情だけだった。
僕はベンチに座ったまましばらく動けなかった。
頭がうまく働かない。
桜木セイラ。
彼女は確かに僕を気遣っていた。その優しさに嘘はないように感じられた。
彼女は僕の救世主なのか。
それとも、僕が疑ったように、あの黒い塊と同種の存在なのか。
あるいは僕の狂気が生み出した、最も巧妙な幻覚なのか。
もしかしたら、そのどれでもないのかもしれない。
彼女は善でも悪でも幻でもなく、僕の理解を超えた何かもっと別の存在なのかもしれない。
それでも僕は彼女を信じたかった。
いや、信じるしかなかった。
希望とも絶望ともつかない、奇妙な宙ぶらりんの感情が僕の心を支配していた。
ふと僕の脳裏にある光景が浮かび上がった。
昼間の教室。休み時間に楽しげに談笑しているクラスメイトたち。その中にはあの自殺した少女をいじめていた中心人物だと噂されている何人かの生徒の顔もあった。
彼らは何事もなかったかのように平穏な日常を送っている。
しかし、この怪異は僕にしか起きていない。
彼女の霊は自分を苦しめた相手に復讐をしているわけではない。
ただ最初に自分を認識してしまった僕という人間に虫が光に集まるように引き寄せられているだけなのかもしれない。だとすれば、そこに意味も理由も目的もない。
そうだ。彼女は誰かに復讐をしたいわけじゃないのかもしれない。
ただ誰にも理解されなかった自分の苦しみを知ってほしかった。
その悲痛な想いがもはや魂の残滓となってただ機械的にその情報を再生し続けているだけ。
そして僕は運悪くその最初の受信機になってしまった。
これは僕だけの地獄なのだ。誰にも理解されることのない誰とも共有することのできない完全に閉鎖された孤独な地獄。
その絶対的な孤独を認識した瞬間。
僕の中で何かがぷつりと切れた。
もうどうでもいい。
抗うことも逃げることも考えることさえも全てが無意味に思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます